彼岸会法要~皆さまと正信偈を唱和~

2017年9月23日、秋季彼岸会法要がお勤めされました。今回も満堂のご参詣で、およそ70名以上が法要にあわれ、一緒に「正信偈」を唱和する声も、一段と大きく本堂に響きわたりました。

副住職からのお話
【阿弥陀の誓願・四十八願】
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。(真宗聖典204頁)

【第六願 天眼通(てんげんつう)の願】
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。
(たとえ私が、仏になっても、人が自分の思いに縛られずに、ありのままに見ることができなければ、私は仏にはならない。)

【私たちの眼】
私たちは、知らず知らずのうちに「善悪の分別」をしています。
→人の死は悪いこと。だから長生きをすることが善いことだと思う。
→災害は悪いこと。だから被害に遭わないことが善いことだと思う。
このように何か自分にとって悪いことが起こったとき、なんとかしてその悪いことを改善しようとします。そんな現実をありのままに受け取れない姿を、親鸞聖人は「凡夫(ぼんぶ)」と表してくださいました。

【如来の眼】
曽我量深先生がよくおっしゃられていた言葉で「感応道交(かんのうどうこう)」という言葉があります。これは、人や自然から、生きる上で大事なことを教えていただくということです。

人が亡くなると、私自身もいつか死んでいく身なのだということを教えていただきます。日常生活を送っているとつい忘れてしまうことではないでしょうか。お葬儀、ご法事、毎日のお内仏へのお参りを通して、改めて死にゆく人生をどう生きていくかを考えさせていただきます。それを心に保ちながら生きていくか、それとも日常をバタバタと過ごしていくか、人生を生きる上で大きな違いがあると思います。何歳で亡くなっても、残された人が残りの人生を大切に考える転機になってくだされば、その方のいのちはずっと皆さんの中に生き続けてくださいます。

また自然災害からは、世の中に起こることは無常であるということを教えていただきます。災害が起これば、生活がガラリと変わり、現実を受け取れずに生きる希望を失ってしまうでしょう。しかしその災害を受けた方々は、立ち上がって歩んでおられます。災害という受け止められない現実を、仲間と共に受け取っていかれたのではないでしょうか。善悪の分別を超えて、その事実にしっかりと眼を向けて生きる。中々できることではありません。

人間は、一人で生きていくのは誰でも心細いものです。しかしこうしてたくさんの方にお遇いすると、受け取れない現実を抱えながら、迷いながら、一生懸命歩んでいこうとされているお姿に力をいただきます。自分一人では抱えきれない問題を一緒に抱えてくださる仲間に出遇うということは本当に大事なことです。現実を受け入れる勇気を賜ることができる、力強い願であると感じました。