中村薫先生「講演録」を掲載します

過日、東京2組B班が開催した「いのちのふれあいゼミナール」における、中村薫先生の講演録を掲載いたします。なお、文責は、齋藤瑶子(明順寺衆徒)です。

2014年12月6日(土)

真宗入門講座 いのちのふれあいゼミナール

講師 中村薫さん(同朋大学特任教授・愛知県一宮市養蓮寺住職)

講題 「身の事実に寄り添って生きる」

会場 源隆寺

参加者 48名

中村薫先生
中村薫先生
会場:源隆寺
会場:源隆寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おはようございます。今回、御縁を頂いて、愛知県の一宮からやって参りました、中村薫と申します。今日は連れ合いと一緒に参らせていただいて、亡き娘を縁として親鸞聖人の教えを聞かしていただきたいと思っております。それにつきまして、自己紹介を兼ねて今日に至るまでの事柄を少しお話申し上げ、娘の死を通して何を学んできたのか、どういうことを考えさせられたのか、そしてこれからどういう風に自分は生きていったらいいのかと、そんなことを含めてお話を聞いていただきたいと思います。

私は子宝に恵まれまして、三男三女の6人の子どもを授かっております。今日お話申し上げるのは、一番上の娘。1975年に生まれましたけれども、19歳の時、突発性心因症というパニック症候群のようなものになりました。原因はよくわかりません。家庭環境、自分の恋人との関係、友達との衝突もあったかもしれません。とにかく自分で自分を整理できない。自分を見失っている。突発性心因症と、こうお医者さんから言われました。

その時に私は、躁鬱ということがまだわかりませんでした。後から考えてみたらそれが躁鬱の始まりでありました。躁鬱という病は、いつでもどこでも誰にでも起こる病気なのです。特に真面目な人ほど弱ってしまう。私は大丈夫というものではなく、誰にでも起こりうる精神的な障害なのです。

それからしばらく安定して結婚し、子どもができて、そしてその子育てをしている間に、躁鬱という病になりました。私どもの所へ帰ってきた時には、もう躁の時でした。夜中じゅう電話を掛け、常識的に迷惑だろうという事柄も抑えられない。常識を逸するような事柄が出てまいりまして、うちへ預かり、治まって、また自分の生活に戻っていったのです。

そんな中で後からわかったのですけれども、4回ほど大きな躁と鬱との波がその10年間の間にあったと。例えば、『楡家の人びと』を書いている北杜夫という方も、4、5年の周期であるそうです。躁になると、もう、やかんから何から放り投げたり、それから鉢巻して電話かけまくったり、躁になると大変になるからお嬢さんも奥さんも逃げ出してしまう。鬱になると自分でじっと暗い部屋に座っておると。北杜夫さんは自分であぁぼつぼつ来たなぁとわかる。それがわかる人なら良いのですけれども、なかなかそれがわからない。

また、躁が強ければ強いほど、鬱も強いと。だけど私たちが今、失敗したなぁと思うのは、鬱の時は自分の生活に戻っていますので、わからなかったのです。躁になると、私の所で預かっていたのですけれども、また治ってきたので普通の生活に戻るとそこから今度は極端な鬱に入ると。その鬱がとっても辛い。躁の時には自分であまり意識がない。ハイになっていますので、色んなことが楽しい。それが鬱になるともう辛い苦しい状態になると。こんなことを後から、日記に残っておりましてわかりました。そしてその鬱病というものの一つ怖いものは、自殺願望欲というのがあります。

今から2500年前にお釈迦様は、言葉で教えてくださっています。「煩悩」という言葉がある。人間の欲。「煩悩」の煩は身が病むことです。悩というのは心が病むことです。人間は身と心で生きていますので切り離せません。それが分裂してくると、精神的に錯乱してまいります。そういう煩悩の悩みの中に「有愛非有愛」という言葉がある。

「有愛」というのは渇愛、執着。つまり死にたくないという欲です。いつまでも生きていたい。だからあなたは癌ですよ、あと半年の命ですよと言われたときに、あぁそうですか、それなら今日は酒を飲んで寝ようかというわけにはいかない。聞いた瞬間からもう自分の身と心が病んでくる。それから「非有愛」というのは、生きていたくないという欲です。この両方を人間は兼ね備えている。しかし我々は、時としてもう生きていたくないという愚痴が出る場合があるかもしれません。それは年齢で80、90になって身体が思うようにいかなくなると、死んでしまった方が楽だろうなぁとか思う。

そしてこの「有愛非有愛」を我々はバランスよく持って生きておるのですけれども、この「非有愛」が極端に強くなってくると自死の状態になります。ですから縁によって誰かが何かの瞬間で止めることもできます。しかし縁ですから全く誰もどうすることができない。私の娘はずっとお釈迦様の教えを聞いておりまして、命は与えられた命、生きなきゃいけないってことは十分承知しています。けれども、ふっと吸い込まれるように自分で首をくくって死んでしまったのです。それは一瞬のことでした。

2004年の7月11日でした。私がその日朝早く、近くのお寺に行って帰って来た時に娘がいまして。なんかこう気が抜けているような、そんな感じがしたのです。それで3時半頃にふっと自ら命を絶ってしまった。「非有愛」っていうのは、ふっとこう襲ってくるというのか、不安が襲ってきて自ら命を絶ってしまう。これは当然人間としてあってはならない。死んでもいいですかって言われたらいけませんと、与えられた命は生きるのですよと、こういうのですけれども、死ぬことよりも辛い何かがあったのでしょうね。「有愛非有愛」とは誰にでも起こりうるものなのですね。

これは京都の大学の先生の報告なのですけれども、息子さんが躁鬱の病で自死されました。息子が、「お父さん、僕はもう大丈夫だから心配しなくたっていいよ」と、こう言って食事を一緒にして、そして別れたその後、自ら命を絶った。それぐらい一瞬の事柄で、まさかという事柄が現実的にはあったのです。

現在でも年間3万人以上の人が自ら命を絶っている。これが現実でございます。そういうことに対して、死ぬなんて意志が弱いからとか、死んだ人は駄目だって言うのではなく、死ぬことよりも辛い何かがあって自ら死んでいってしまう。そういうことを私は娘から突き付けられたわけなのです。その中でもう少しこの環境的なことを見てみますと、実は私どもが6人の子育てをしている中で、少し見失っていたものがあったなということを感じます。

一つは現実的な課題としまして、私の叔父がハンセン病という病気になりました。昭和22年に長島の「愛生園」という療養所へ入所しました。そのことは私の生まれ育った環境の中では一切タブー視されて閉ざされておりまして、私は叔父がいるということすらわからずに育ちました。しかし色んな友達を通じながら叔父がいるということがわかりまして、私は連れ合いと一緒にそれはおかしいのではないかと、もう病気は治っているのだから故郷へ帰ってもいいのにどうしてその叔父さんだけを療養所に閉じ込めているのか。私たち夫婦が色んな反対運動をする中で、娘もそこで差別というものも受け止めておったかもしれません。そんな中で娘は、愛する娘と夫とを置いて自ら命を絶ってしまいました。

私はその時に、高史明(こ さみよん)という先生の所に娘が亡くなってしまったと電話しました。そしたら高先生が、「泣いて、泣いて、泣いてお嬢さんの分まで生きてください」、そうおっしゃってくださった。そのことだけが心に残りまして、涙って枯れないもんだなぁって泣いていきました。そんな時に娘が言っていたことで、「お父さん、泣くって、さんずいに立つと書くでしょう。泣くって言うことは涙を流して立ち上がることでしょう」。そんなことが聞こえてきまして、その時はただ憚りなく、泣いて、泣いて、泣き明かしました。娘のご主人とは、お互いに色んなことあるけれども、お互いに責め合うことだけは止めようと。その身の事実だけをどうか受け止めていってほしいとお願いしました。そんな中で色々思われてきたのが、やはり仏様の言葉でした。

「身、自ら之に当たる。代者有ること無し」。私たちの生きる道、それは誰も変わってもらえない。あなたはあなたなのだよと。手塩に育てた我が子が、現実的に亡くなっても親は泣くことしかできない、代わることができない、みんなそこに一人ひとり生きているのだよ。これが『大無量寿経』の教えだったのです。

娘のおばあちゃんが言っておりました。この老いぼれた私が生きて、これから人生がある孫が、なぜ死ななきゃいけないのか。できれば代わってやりたいと言って泣いておりましたけれど、こういう命を実は一人ひとりが生きておるということです。そのことをやはり受け止めていかなければ、私たちは生きていけないという、その言葉が身に迫ってきました。

そんな中で、私がずっと暗い顔していたのでしょうね。自分としては気力を持って頑張っているつもりですけれども。連れ合いもそうでしょうね。買い物に行ってお気の毒様でしたね、それも運命でしょうねとか言われても受け止められない。だから私たち、引きこもりになってしまったのです。人に会いたくない、会ってなんか言われても、空々しく聞こえてしまう。こちらが悪いのですよ、言ってくださる方は一生懸命に言ってくださるけれどもそれが自分では受け止められない。

そんな中で、お同行の人が伊藤左千夫の歌を紹介してくださったのです。「み仏に救われありとおもひ得ば、嘆きは消えむ消えずともよし」。伊藤左千夫の7番目の七ちゃんという1歳半の子が、お父さんに「遊びたい」と言って自分が昼寝している時にやってきたのです。だけど「後でね」、とこう言った。そしたら井戸を汲んで水が流れたところにちょうど畳二畳分くらいの水たまりがあって、「ここは危ないなぁ、なんか柵でもした方がいいかなぁ」と思っていたのだけれどもそれをほかっておいたと。それで七ちゃんが来て、自分寝ている間に外へ出て、底の中にはまってしまって亡くなっていた。自分としては13人いるから一人ぐらいじゃなくて、子どもはみんな同じように可愛いのが親ですから。もう伊藤左千夫も泣いて、泣いて、泣き明かした。お檀家さんが葬式をどうしましょうかと言ってくるけれども、頼むから一人にしてくれ。こういうのが伊藤左千夫のその時の心だったと。それで詠んだのが「み仏に救われありとおもひ得ば、嘆きは消えむ消えずともよし」。

七は1歳半で亡くなっちゃった。仏様の教えを聞かずに死んでしまったこの娘は仏様に救ってもらえるだろうか。救われてあると思ったならば、嘆きは消えるであろうか。いや、消えずともよしと。生涯かけてこの悲しみは引き受けていく。それが徐々に身に染みてきまして。29歳で亡くなった娘は救われているだろうか。嘆きは消えないこの歌が私の身にジーンと沁みてきたのです。どこかで区切りをつけたかったのです、私。もう諦めようとか、もう死んだ人は仕方ないのだとか、なんとか忘れようと思えば思うほど、こう想われてくるのです。それもふっとなんですね。自動車を運転しておる時、朝、目が覚めたときに、あぁ娘はもういないのだと思われてくる。そんな中で伊藤左千夫は七のその1歳半まで生きた私との関係はずっと引き受けていくと。こう伊藤左千夫は言って立ち上がっていった。そのことが私にも思われてきまして、ずっとそのことを感じているのです。

そういう思いの中から、今度は私の父親がその年の12月24日に亡くなりました。娘が亡くなった後、私の父親のもとへ報告に行ったのです。そしたら父親が、「なんでだなぁ、どうしてかなぁ」「身体に気を付けてやるように」と。私はその時に、父親は悲しみというものが無くなったのかと、もうぼけてしまったのかなと、こんなことを思って帰ってきました。

そして父が病院へ担ぎ込まれて、私、初めて人の死に立ち会ったわけなのです。その時には不思議なくらい父親にお礼が言えました。「長い間ありがとうございました、ご苦労様でした」と。ところが娘のことになると悔いが残る。何とかならなかったのかということで未だにそういうことがある。それがどうしてか、そのことをずっと今考えている。なんで同じ人の死なのに娘のことは納得できないのか。それをこれからおいおいお話を申し上げてみたいのです。

馴染みのない言葉かもしれませんけれども、「同悲同苦」。悲しみを同じくし、苦しみを同じくする。鈴木大拙先生が慈悲をこう分けております。慈とは如来の側のことであり、悲とは衆生の側である。だから同情や憐みでは人を救えない。人が本当に救われるのは仏の慈悲に照らされて初めて自らの悲しみに気付いていく。

実はそのことを教えられたのは、私が父親の臨終に携わったときに、兄が私にこう言ったのです。「お父さんはね、娘を亡くしたその私たちの悲しみに対して、あなたたち夫婦に何て言葉をかけていいのか言葉が見つからないと言って悩んで苦しんでいたのだよ」。私の父親は、私の姉が10ヵ月、そして2番目の姉が3ヵ月で亡くなっています。ですから母親はその時ノイローゼになり、しばらく実家に帰った。実家の近くの海を見るとそこへ入っていきたくなってしまう。それからしばらくボーっと歩いていると、おむつが干してある。そのおむつを見ると、泣けてくる。そういう状況の中で、私の3番目の姉と兄と私が誕生して、母親はこう言っておりました。「お母さんが生きてこられたのは、あなたたちがいてくれたおかげだ」と。子供を亡くしたことがあるからこそ私たち夫婦にどう言葉をかけていいか言葉が見つからなかった。言葉っていうのは難しいですね。本当のことってなかなか聞けないし、言えない。大事なこと一つ伝えたいと思ってもなかなか言えない。これが人間の本当の姿かもしれませんね。そんな中で初めてこの「同悲同苦」と、私の父親が私たちに対して悲しみと苦しみを同じく受け止めてくれていたのだ、そういう人が私たちの周りにいたのだと、そのことに私、初めて気が付かせてもらったのですね。時間的にちょっと休ませていただいて、あとまた45分お話をさせていただきたいと思います。

 

~休憩~

 

これから少し現実的な事柄を申し上げたいと思います。結果的に私たちがもう少し鬱病というものをしっかり知っていたら、娘を助けられたか助けられなかったかは別として、もうちょっと対処の仕方があったのではないか、反省が今あるわけなのです。私は今、「日本鬱病学会」に参加させていただいておりますけれども、そこで大変なことに気付かされました。それは、宗教的な事柄と医学的な事柄がまったくかけ離れているということです。お医者さんの関係であんまり宗教的なことは言わないようにしているのか、カウンセリングというHow toは色々しております。そして薬はものすごく進んでまいりました。

例えば娘の場合で言えばハルシオンという睡眠薬。それを飲むと、夢遊病者のように夜中にパジャマ姿のままでコンビニに行く。夜中に走り回ることも起きてくるわけなのです。それまでの精神科医というのは電気で脳を圧迫してみたり、縛り付けてみたりしてきたこともあったみたいですけれども、今はカウンセリングと薬と両方が大事ということになってきました。未だにやはり、薬漬けというのか。カウンセリングのお医者さんに私付いて行きましたけれども、目と目を合せて対話していない。ノートを見て、どうですか、最近どうですかってことであんまり聞いてくれない。1時間待たされて5分か10分という現実的にね、色んな問題もあります。一つ私がやはり感じましたのは、お医者さんは2人ぐらいあってもいいのではと。宗教的に言えば2つの信仰をするっていうのは、これはとんでもないことです。宗教はやっぱり一つの道を歩むのですけれども、お医者さんに限ってはやはり2人、3人で色んな症状を見ていくのも大事だなぁと感じました。

それから実は5月から躁が出まして、7月11日までの間で、これが失敗した事柄で、薬を自分で判断して止めてしまったのです。もし皆さんの関係の方で精神的に薬を飲んでおられる人がいたならば、自分で勝手に止めないようにということだけはちゃんと申し上げたいと思います。お医者さんの指示に従って、止めるなら止める、飲むなら飲む。医者もちゃんとカウンセリングを2人、3人揃って色々な情報でちゃんとしていくことが大事なのです。

娘の場合は、あえて名前を申し上げますけれども、長田百合子という方に出会いました。私の方の愛知県では、戸塚さんという人がヨットで引きこもった人を出すように、長田百合子という人もカウンセリングをしながら引きこもった人を出してくる、そういう人と出会いました。実は私の一番下の娘が中学2年生の時、非行になりましてね。私今日から学校行かないと不登校を起こして3ヵ月後にはシンナーまで吸うようになって。万引きはするわ、プチ家出っていうそうです。プチトマトがあるでしょ、あれと同じように1週間ぐらいどっか行って、仲間と車に乗って徘徊しているのですね。お姉ちゃんはそれが許せなかったのです。真面目だったのですね。一生懸命頑張りすぎちゃったのですよ。

九州大谷短期大学の先生しておられた宮城顗(みやぎ しずか)って言う先生ね。「努力も他力の内」。我々は努力っていうのは自力だと思っていた。しかし努力も他力の用(はたら)き、努力ができたということは大いなる用きによってできたのであって、自分で努力してすむことなら悩む必要もないわけです。長男が姉ちゃんを一回責めたことがあったのです。「姉ちゃん、あんたは甘えている。もっと努力しなさい」とこう言いました。しかし、娘が自死した時に長男は失語症になってしまいました。1年間くらい言葉を失ってしまったのです。色んなことがあったのでしょうね。毎月11日にはお花をお供えしておりました。姉ちゃんのことをずっと忘れられずに悩み苦しんでおるのですね。一人の死というのが家族全体に及ぼしていくのです。一人が勝手に死んで勝手に一人でと言うのではなくて、その一人の事柄が大変な人間に大きな影響を与えていくというそういうことがあるのです。

これはね、東北地方で地震津波によって身内を亡くされた漁師さんの言葉です。津波の後、自分はもう海へは戻りたくないと思った。海のおかげで自分は生活できたが、その海が身内の命を奪っていった。だからもう海へは戻りたくない。しかし半年、1年たって海でしか私の生きる所はないとこう思ったと。そこでおっしゃったのは、どうして私だけが助かったのか。連れ合いと娘を亡くしてしまって、なんで私だけが助かってしまったのかと、助かった人が苦しんでいく。これが人間の悩み、苦しみです。

これちょっと話がずれるかもしれませんけれども、韋提希(いだいけ)という人がいるのです。王舎城(おうしゃじょう)の悲劇というお釈迦様の生きておられた頃に、息子が親を牢屋に閉じ込めて殺そうとする悲劇があるのです。頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)と韋提希夫人(いだいけぶにん)の間にお子さんが授からなかった。インドっていうのは占いの盛んな国で、占い師によると「山で修行している仙人が亡くなって3年後に生まれますよ」というお告げが出たっていうのです。それで王様は早く子どもが欲しいので「死んでくれ」ってお願いに行くのです。でも仙人は「いくら王様のおおせでも嫌だ」って言うのです。そしたら「お前、誰のおかげでここにおれると思うのだ、王様のおかげだろう」と、殺しちゃったのです。それで死ぬときに、今度生まれたときには必ずお前を殺すと言って怨念を持って死んでいった。そこで生まれたのが阿闍世(あじゃせ)。阿闍世という人は未だ憎しみが生じない、未生怨の王子と呼ばれていた。阿闍世が生まれてすぐお父さんが顔を見たときに仙人の顔が浮かんだのです。こいつに俺は殺されるのかと思ったら怖くなってしまって、穀物小屋に落としちゃった。そしたら小指を怪我しただけで助かった。それからは一生懸命育てたのですけれども、それを告げ口のように教えたのが提婆達多(だいばだった)という人。お釈迦様のいとこで最後までライバル意識を持ってお釈迦様を邪魔した人です。その提婆という人が阿闍世に「お前の指が曲がっているのは、お前のお父さんお母さんがお前のことを殺そうとしたからだぞ」と。それで阿闍世は逆上してお父さんを牢屋に閉じ込めてしまう。それが『観無量寿経』の王舎城の悲劇。

その間に入って苦しんだのが韋提希夫人なのです。この人が牢屋に閉じ込められている王様に対して身体をきれいに洗って、そして瓔珞(ようらく)というブローチとかそういう物の中に葡萄酒とか色々入れて面会に行くのです。そして閉じ込められて食も断たれている中で、かろうじて頻婆娑羅王は生きていたのです。しかし阿闍世が「父の国王は未だ健在か」と1週間たって聞きに行ったら「お元気です」って。「なんでか」って言ったら「韋提希夫人が王様を助けているからです」と言ったら阿闍世がまた逆上して韋提希を殺そうとするのです。ところが家来の人たちに止められて、その代わりお母さんを閉じ込めてしまうのです。死んだらおしまいじゃないけれども、苦悩というのは生きている間にずっと受けていくのです。

私たちは今、家族として娘の死から10年たちましたけれども、ずっと引きずっています。もうこれでいいのだと、仕方ないじゃなく、ずっと引きずっています。だから御縁のある人が鬱病で悩んでいたら、ほっとけない。老婆心でうるさいかもしれないけどほっとけないし、あるいは息子を亡くした人がお見えになったらただ話を聞くだけですけれども、共に慰め合うのではなく、身の事実に生きる。そこで寄り添っていくことが自分たちの今、娘から与えられた仕事であるということを思っております。

そこで医学的に大変な失敗をしてしまったことは、娘が鬱病の時に孫の保育園から娘の住居から全部私のお寺の近くに移そうという計画をしたのです。しかし鬱病患者にとって環境を変えることが一番悪かったと後からお医者さんから言われました。じっとしているほうが一番いいのです。長田百合子という人がお見えになって、引きこもっている人たちを引き出す手伝いをしろとこう言われ、私たちは何とか元気になるならいいかなと思って長田先生と一緒に出掛けさせたのですけども、そういうことが結果的には一番鬱病患者にはよくなかったそうです。ちゃんとお医者さんの指示に従ってゆったりして、そして薬を飲んで回復を待つのが大事だ、それでも死なないという保障はないですけれどもそうするべきものを頑張れと言ってしまったのです。それで自分も頑張ろうと、「こんな薬なんか飲んでいたら廃人になっちゃうよ」と長田先生から言われたってことで自分も薬を止めようと、2ヵ月ぐらい。そして自死する少し前に反動的に全部飲んじゃった。だからそこらへんは家族のものがしっかり薬を管理しなきゃいけないなってことは反省で思います。仏教的なことは離れちゃうかもしれませんけれども。それで救急車で運んで医者で胃を全部洗ってもらって、2日間程で回復しまして、まあ身体は丈夫だったのですよね。その時に精神科医に頼ってその病院でゆったりすれば良かったけれども本人はふらふらしながら立ち上がって「もう帰る」って言って帰ってきちゃったのです。そしたら今度は自分が薬を全部飲んでしまったことの罪悪感でまた自分自身を責めてしまう。もうマイナスに考えて行ってしまうということで結局7月11日の日に自ら命を絶ってしまった。

そういう中で最後に一つね、柳田国男という方がおられるのですけれども、この方も息子さんが25歳で自死してしまってね。久しぶりにお話して「おやすみ」と言って。なんか胸騒ぎがして、部屋へ行ったら電気コードで首くくっていた。その柳田国男という人に司馬遼太郎さんからお手紙が来た。それをちょっと紹介してみたいと思います。

御胸中の万分の一を察し入りつつ、人間のいのちが両親や他の人々にいたわられつつ辛うじて存在していること、いたわりが千万倍ふえようとも、掌の中の露の玉のように指の間から落ちてゆくこと、そのはかなさ、それは、内村鑑三のことばを強いてあげれば「勇ましく高尚」なものであるかと存じます。吉田松陰は洋二郎さんより、二、三歳上でもって生涯を終えました。「人は、たとえ六十、七十であろうと、二十五、六であろうと、春夏秋冬というのがあるのだ。悔ゆることはない」と死の直前に書きました。われわれは馬齢であります。二十五歳は宝石であります。まことにまことに。

あなたの胸の内の万分の一しかわからないけど、そのことをちゃんと身に受けまして、両親にいたわられながらみんな辛うじて生きているのだよ。しかし水をすくったらその指の間から1滴落ちるように、どれだけ親がこの子は大事だと囲ったとしてもその中から落ちていく。人間の一生が80、90歳で春夏秋冬じゃなくて、例え25歳であろうとその中に春夏秋冬があるのだ。だから人生長ければいいと、短いから可哀そうだじゃなくて、人の一生は何歳であろうともその中に春夏秋冬があるのだ。われわれは馬齢であります。二十五歳は宝石であります。ということです。

私が柳田国男さんの言葉を通じて教えていただいて初めて気が付いたことは、娘の29年の生涯には娘の春夏秋冬があるのだ。つまりわたしは29歳で亡くなった娘は可哀そうだと、人生やっぱり80年なら80年生きて欲しいと、それだけしかなかった。けれども今、死している現実を見れば悔ゆることはない。人は何歳まで生きれば幸せとかそうじゃない。25、6歳で亡くなったからその人の人生は無いじゃなくて、25、6の中に春夏秋冬があるのだと。娘を可愛い可愛いと思っていてもこの手の指の中からぽんと露のごとく落ちているかのごとく一瞬の間。

さあ、そうするとその娘が今どこへ行っているのか。私は親鸞聖人の教えを聞かしていただいて、娘はお浄土にいると。このことが今はっきりしております。だから私は命終わっていったときにまたお浄土で会いましょう。親鸞聖人もおっしゃっています。限りある命であるからいつかは別れなきゃならんけれどもお浄土で会いましょう。だから私は今、生かされてある命を娘の分まで生きていかなきゃいけない、こう思っております。ですから打ちひしがれてはおれない、もっと積極的に命を大事に生きなきゃいけないというのは娘から与えられている。そして亡くなった時、娘は遠くへ行ってしまった感じがしたのですが、今はまるで私のそばにいるような気がするのです。なんかあった時に「綾、こんな時どうしたらいいかなぁ」、「お父さんこんなこと心配しなくていいよ」自問自答なのですけど、私のそばにいるような。そうすると私はお浄土に娘がいることがわかった時点で、安心して今を生きていけるというのが私の心境なのです。

だけどそれまでは、実は親鸞聖人の言葉がどうしても頷けなかった。仏教を40年学んできてもどうしても納得がいかなかった言葉が『歎異抄(たんにしょう)』にあります。

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々

お慈悲だって言ったって、親鸞聖人はそんなのは助けることができぬのだと。私、なんて親鸞は冷たい人なのだと思いました。私は助けてほしかったのです。家族も一緒にですよ。ところがなんぼ不憫と思っても助けることはできませんよ。つまりお念仏の教えを聞かしていただくこと以外に私の救いはない。はっきり自分自身で頷けたのです。それまではもう死んだ娘は帰ってこないと、お浄土へ行っているから心配しなくたっていいよと、こう頭ではわかっているけれどもこの身が承知できない。そんな中で親鸞聖人は「まず有縁を度すべき」。あなたのそばにいる人と救われてくのですよ。私は連れ合いと共に子ども、孫、おばあちゃんと共に生きている今現実の中で、娘の死を受け止めていけるかどうか。ですから、身の事実に「樹(た)つ」と。

最後に一つだけ申し上げるのは、私ずっと考えていたのです。もう娘は帰ってこないことはわかるけれども、なんとか取っ払って忘れたいなぁ楽になりたいなぁと。しかしね、金子大栄先生が、「落ち着く」と。「落ち着く」っていうのは落ちて着くのです。私たちは救われるとなると願い事が叶って思い通りになることと思っている。時間の関係で簡単に申し上げますと、旅人が橋を渡っていたら、すべって落っこちそうになってぶら下がっていた。そしたらお百姓さんが通りかかったから、「助けてくれ」とこう手を差し伸べたらお百姓さんが「手を離せよー」って行っちゃったって言うのです。話はこれだけなのですけれども、これにはオチがありまして。一寸下が大地の河原だったのです。だから手を離せば大地に足が着いたのです。これをお百姓さんが阿弥陀如来と見た。旅人が我々なのです。我々は救われるということは苦しみが無くなり思い通りになると。そうじゃなくて手を離せというのは執着を離れろと、手を離したら足が地に着くよ。それが「落ち着く」。つまり我々が救われるって言うのは落ち込んでいくって言うことなのです。落ちて、落ちて、落ちぬいていくのです。地獄の底まで落ちていくのです。そこに必ず救うぞ。

我々は落ちたくないからぶら下がっているのです。だから大地に足が着くという意味で落ちるっていうことがとっても大事で、身の事実に樹(た)つ。樹つってことは大地が支えられている、樹の根っこが1本の樹を支えている。見えないものによって支えられているという意味でこういう立つもあるけれどもあえて樹つという。樹は見えない根っこによって支えられている。それは我々も生きているのだけど同時に生かされてある命。ということは初めて明らかに私になってきたのは、亡き娘が私にいつでも呼びかけてくれる。だから寂しくないと言えばうそですけれども、寂しくないのです。お浄土で会いましょう。いつでもあなたと会えるよ、という世界。だから今まで生きている間には見えなかったものが見えてくる。ちょっと妙な話で恐縮ですけどね。娘がどんな時に悩んでいたのかな、そうするとね、色んな人間の関わり合いの中で、色んな生活の中で苦しんで、子どものことで悩んで苦しんでいるそういう人たちと接すると、聞けるという。聞いていく。それまで「あんたの努力が足りないのだ、もっと頑張りなさい、そりゃ親が悪いのだ」、人のことはなんぼでも言ってきた自分が問われてくる。聞き続けることしか私にはできない、しかしそれが大事なことかな。ということで今回お邪魔してね、連れ合いと一緒に来たのは、やっぱり私と共に生きていくという。お互いに夫婦というのは喧嘩もするけれども支え合っていくという意味で、また私の連れ合いは連れ合いで意見があると思いますので、後の座談でお話しできればいいなと思って今日は2人でお邪魔しました。それであまり深くは申せませんでしたし、話があっちこっちに行ってしまってわかりにくいところがあったと思いますけれども、後でお話合いがありますので色々聞かせてください。よろしくお願いいたします。頂いた時間が参りましたのでとりあえずこれで終わらせていただきます。

(文責:齋藤瑶子)