生前、中津功先生に聞かせていただいた話です。
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ある司法解剖に携わっていた方ですが、人間は死んだらNothingだ、なにも無くなる。そう思い続けて遺体に向きあってきた。
ある日、奥さまに先立たれ、葬儀も終えて、納骨も終え、家にはお内仏(仏壇)だけが残った。
そうすると、その方は、毎朝お内仏に向かって「じゃ、行ってくるよ」と話しかけるのだそうです。
帰ってくると、「いま帰った。今日はこんなことがあったよ」と。
後になって、その方は笑いながら言われていたそうです。人間の死はNothingではなかった…。
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私たちは、生きているあいだ、自分の都合で相手を褒めたり貶したり、自分の勝手でもって相手の人を愛したり憎んだり。そういうところでしか、なかなか人と出あうことができません。
たとい、その方が亡くなってしまっても「こうして欲しかった」「こう言ってあげたかった」…。自分の思いというものは尽きるものではありません。
そういう尽きることのない思いを持ちながらも、しかしそこを超えていく。亡くなった方と本当の意味で出あっていける世界があることを、親鸞さまは私たちに教えてくださっているのでしょう。
そういう意味で、お寺は亡くなられた方との「出あいの場」なのですね。
明順寺住職:齋藤明聖