第141回:「お釈迦さまの開悟」

真宗大谷派宗務所発行の『同朋』5月号に、池田勇諦先生の寄稿が掲載されていました。その中の印象的な部分をここに転載しておきます。

仏伝でよく知られているとおり、お釈迦さまは修行の最後の段階で、独り菩提樹の下に坐して内観の実践に入られました。その際のお釈迦さまの内観の葛藤は、誘惑する悪魔の来襲と、守護神・帝釈天との闘いとして伝えられています。

しかし、その守護神であるはずの帝釈天は、ついに悪魔の大軍勢を前にした時、お釈迦さまを守護することを放棄して逃亡してしまったのです。どこへ逃亡したのでしょうか?

それが、こともあろうに、悪魔の大軍勢の中に逃亡したのです。その瞬間に、お釈迦さまは豁然(かつぜん)とさとりを開かれたのでした。

悪魔とはお釈迦さまの欲望のことであり、帝釈天とは理性のことです。お釈迦さまをつねに欲望から守護し、向上することを意欲してやまない理性、それが何と欲望と同質であったではないか。人間の至宝とする理性が、人間を闇の深淵に引きずりこむ欲望の変形でしかなかった…。この驚きと懺悔(さんげ)こそ、お釈迦さまの開悟だったと告げる一語、それが「おお無明よ」でした。

そこに始まったお釈迦さまの生き方は、理性至上の人間中心主義の傲慢(ごうまん)さをひるがえし、真理に対する謙虚な姿勢を生きる根底に獲得することを、広く自・他のうえに勧められたことであったのです。