第8回:「お盆にあたって」

お盆のいわれは『盂蘭盆経』にあります。

お釈迦さまの弟子の中で神通力第一といわれる目連尊者が、亡くなったお母さまをながめてみたところ、餓鬼道におちて木に逆さまにつるされたような苦しみを味わっていた。目連は、お釈迦さまに救いを求めました。

お釈迦さまは「おまえの母は、おまえにはこの上もなく優しい母であったが、他人に対しては施したり恵むことをしなかった。その罪は重く、目連ひとりの力で はとうてい救うことはできない。

目連よ、7月15日の僧が一室にこもって修行する最終日に、すべての僧、仏弟子たちに、食事から香油、寝具にいたるまです べてのものを供えて供養しなさい。そうすれば、おおぜいの僧の力によって母を救えるであろう」とすすめました。

わが子を育てることによって、餓鬼道におちてしまった母。そこでお盆は、先祖や両親の恩を知り、感謝して、供養や孝養を尽くす行事となって絶えることなく続けられているのです。

しかし、同朋大学の元学長である池田勇諦先生はこういいます。

逆さまだったのは母ではない。目連が逆さまだった。目連が逆さまだったから母が逆さまに見えた。目連が仏さまの教えと逆さまの生き方をしていた。親の恩を 忘れ、施す心を忘れていた。このことをお釈迦さまに教えられて、目連が救われ、母が救われた。これが本当のところだ。

なるほど、そうですね。私たちは、仏さまと逆さまな生き方をしているのですね。

恨み、妬み、嫉み、すべてを人のせいにして自分を正当化し、自分を主張することばかりに一所懸命で、自分の頭で考えることがすべてだと思って生きています。

人類の歴史をみてもそうですね。幾度となく戦争を繰り返してきましたが、戦争したくてしてきたわけではなくて、平和を求めて戦争をする。自分が正義であることを主張して戦争してしまう。

そこに人間が共にもつ、仏さまのありようとは根本的に違う愚かさがあるように思えます。こういうことを知らされると、もうナムアミダブツしかないですね。 頭がさがります。

明順寺住職:齋藤明聖