第6回「歎異抄講座」が開催されました

2026年4月11日午後2時から明順寺「歎異抄講座」が開催されました。今回が第6回になります。

講師は、新潟県久唱寺住職・橘出先生です。レジュメを掲載しておきます。

第3章【現代語訳】

①善人でさえも阿弥陀の浄土へ生まれることができます。まして、悪人はいうまでもありません。

②ところが、世間一般の人びとは、つねにこう言います。「悪人でさえ浄土へ生まれるのなら、善人が生まれることは当然である」と。これは、一応、道理にかなった言い分のように思われますが、実は、阿弥陀の本願・他力の救いの精神には背くことなのです。

③なぜかと申しますと、自分の力をたのみにして善行を励み、それによって悟りを開こうと思っている人びとは、ひとすじに他力をたのむという心が欠けているのですから、阿弥陀の本願に背いていると言わねばなりません。しかし、この人びとも、自力をたのむ心をひるがえして、他力を信ずる身になるならば、真実の浄土に生まれるものとなるのです。

④よくよくふり返ってみますと、煩いと悩みとをかけめなく身にそなえている(煩悩具足)私たちは、どのような修行に励んでみても、この迷いの人生を離れ切ることなどは決してできません。このような私たちを大悲のお心でみそなわして本願をおこしてくださった阿弥陀のご本心は「ただ悪人をこそ仏とならしめん」ということの外にはないのです。だからこそ、他力をたのむ悪人こそが、必ず阿弥陀の浄土へ生まれることの決定した人なのであります。

⑤それゆへに、善人でさえ浄土へ生まれることができるのであれば、まして悪人の往生は当然のことであると言うたのです、と親鸞聖人は教えてくださいました。

【用語】

善人 自分で仏になるために仏の教えにしたがって功徳を積むことができる人のこと。悪人は、自分で功徳が積めないばかりか、仏の教えに背く人。

十善業「十悪」との対比:十悪(、、、、、、、、、)を行わないこと。

他力 阿弥陀仏の「選ばず 嫌わず 見捨てず」の摂取不捨のこと

自力作善 成仏のために自分の力によって功徳を積むこと

真実報土 真の浄土。後に出てくる「」、「」(の浄土)に対する言葉。

往生の正因 浄土に生まれるべき原因、種。悪人の自覚ゆえに信心を得る、その信心が「往生の正因」となる、ということ。「悪人」が「正因」になるということではない。

 

【ポイント】

1〈私のための教えに出遇うと、もう他の教えはいらない〉(宮崎哲弥)

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」「を度すべし」

→私一人がすくわれなければ、他の誰も救われない。

 

2 【曽我量深】善人というのも悪人というのもその人の自覚である。なにか他人をさして善人悪人というのではない。

ここでいう善人悪人は、ふつうにいう善人悪人出ないことをあきらかにせねばならない。

これはやはり機の深信、自分について自分がよいと思っている人が善人、自分は「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(テキスト5頁『歎異抄』第二章)、往生の因も手がかりもないと自覚している人が悪人。

 

3 「これは、一応、道理にかなった言い分のように思 われますが、実は、阿弥陀の本願・他力の救いの精神には背くことなのです。」

本願他力の意趣 → 他力本願のご正意

【化身土・本巻 訳】

『観無量寿経』はこれまで二門(精神集中と善いことをすすめ悪いことを戒める)の

利益を説くが、阿弥陀仏の本願の意をえば、衆生に、にひたすら弥陀仏の名をえさせる()ところにがある。

 

・『観無量寿経』は、人間の能力・性質をすぐれた者から劣った者まで9段階に分け、上六品 の人は自力作善の人、下三品は造悪不善の凡夫であると示している。しかし、善導大師は、 すべての人はみな凡夫である()、と示した。

(上三品は、遇大の凡夫。中三品は、 遇小の凡夫。下三品は、遇悪の凡夫)

 

【法語】善人は顔が暗い 悪人は顔が明るい (曽我量深)

以上