第3回「歎異抄講座」開催

2025年6月14日、午後2時から「明順寺歎異抄講座」が開会されました。講師は、久唱寺住職・橘出先生です。

記録のため、当日のレジュメを掲載しておきます。

第1章【現代語訳】
①いのちあるもののすべてを救おうと誓う阿弥陀の願いの、はからいを越えたはたらきによって、この生涯を尽くし、真実の世界に生まれるのであると信じて念仏申そうと思いたつ
こころのおこるとき、すでにそのとき、すべてのものを摂め取って捨てることのない光のおさなかを生きる身となるのです。

②阿弥陀の本願には、老人と若者とのへだてもなく、善人と悪人との差別もありません。ただこの願いに目覚める心、すなわち、信心ひとつが肝要であると知るべきです。

③それというのも、罪業、罪の身の深きに苦しみ、煩いと悩みとのはてなき人生を、生きてざいごうわずらいかなくてはならない人びとのための、悲願だからであります。

④ですから、阿弥陀の本願を信ずる身には、他のどのような善も必要ではありません。念仏よりすぐれた善はないからです。また、悪を思いわずろうて恐れる必要もないのです。本
願を妨げるほどの悪も、決してないからです、と親鸞聖人は教えてくださいました。

【ポイント】
無量寿・無量光阿弥陀とは、智慧と慈悲が無限無量の仏。それを「無量光」「無量寿」と表現された。「帰命無量寿如来南無不可思議光」

法蔵菩薩と世自在王仏の出遇い  阿弥陀仏はもと国王であったが、国を棄て王位や財産も捨せじざいおうぶつであすてて仏弟子となった。その時の名が法蔵菩薩で、世自在王仏というこの世において自由自在な存在である仏様に出会った。(権力と本当の自由自在)

念仏往生の誓願(本願)   一切の生きとし生けるものが救われなければ、私は仏に成らないと誓う願い、それが法蔵菩薩の誓願です。
ア.「我が名を称えよ。我が名を称えた者をわが国におさめとって決して捨てることはない。」(17願・18願のこころ)
イ.第一「わたしの国に生まれたなら、いのちをきずつけ合い、欲によってうばい合い、だれかに支配されることのないようにします。」(48願の第1願『真宗児童聖典』)

不思議  「人身受け難し今すでに受く仏法聞き難し今すでに聞く」

感動すべき事実  不思議というべき事実に、まさに出遇っているそのことこそが、「誓願不思議」ですから、感動があるといえる。ただわからないのではなく、感動がある。

人生の完成  「往生をばとぐるなりと信じて」の「往生」とは、浄土に向かって一歩一歩歩んでいる、目覚めに向かって生きつつあるその歩みを完成すること。現在ただ今、喜びを
もってお浄土へ向かって生きていくのだという自覚。不安ではなく喜び、停滞ではなく進んでいく、拓けていくという、明るい言葉。

事実に頷く  念仏もうさんと思いたつ心が起こってくるというところに、はや弥陀の誓願不思議のはたらきがある。今、弥陀の誓願不思議に出遇っている。従果向因の教え。

ものの逃ぐるを追わえ取る  「摂取不捨の利益」とは、現在ただ今、利益にあずかること。「弥陀経和讃」の左訓に、「摂」と「取」について、「摂め取る。一たび取りて永く捨てぬなり。
「摂」はものの逃ぐるを追わえ取るなり。「摂」は摂め取る。「取」は迎え取る」とある。

罪悪深重煩悩熾盛の身の自覚  罪や悪が深く重い。炭火が熾るという字、燃え盛るの意味。弥陀の誓願不思議に出遇うとは、実は罪悪深重煩悩熾盛の自分自身を深く知るということ
と一体になっている。「親鸞一人がためなりけり」とは、「私一人のためだったのです」である。

現在に救われる  世界中の人が自分を見捨てて、自分を仲間はずれにしようと、弥陀の本願だけは絶対に私をお捨てにはならない。そういう念仏・本願をよりどころとして生きてい
く、その人生をいただくということ。

【注】
たすけられまいらせて 「弥陀の誓願不思議」とは、新しい成仏の手段を保障する原理。その「原理の力によって」ということが「たすけられまいらせて」、つまり「回向」という
こと。(阿満利麿)「この幸せのほかにどんな幸せがあるだろうか」(東井義雄)

ただ  「唯」は、ただこのことひとつという。ふたつならぶことをきらうことばなり。また「唯」は、ひとりというこころなり。(唯文671頁)

罪悪深重  仏教における罪悪は、因縁果の道理を見通すことができる智慧をもたないこと。「宿業」(第13条)の自覚のこと。「ただ自分の罪が深いというのではなく、罪悪観の深さをいう。」(曽我量深)

煩悩熾盛   煩悩の中核には自己中心性がある。自己のために欲望が総動員される様子を煩悩という。「貪」(むさぼり)、「瞋」(いかり)、「痴」(おろかさ)の「三毒」という。「三毒」が内にはたらくときが煩悩で、行為として外にはたらくと「罪悪・罪業」となり、その自覚が「罪悪深重」。「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという。」(『唯信鈔文意』678頁)

以上