2025年4月22日(土)午後2時から、「歎異抄講座」第2回が開催されました。
新たな参加者も加わり、8人での聞法の座になりました。
記録として、橘先生の作成したレジュメを掲載しておきます。
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明順寺さま歎異抄講座(第2回)
2025年4月12日(土) 新潟久唱寺住職 橘出
『歎異抄』序
① 竊かに愚案を回らして、ほぼ古今を勘うるに、
②先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、
③幸いに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。
④全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ること莫かれ。
⑤よって、故親鸞聖人御物語の趣、耳の底に留まるところ、いささかこれをしるす。ひとえ
に同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々
【現代語訳】
①私一人の思いですが、私の拙い思案をめぐらして、故親鸞聖人の時代と今の世の状況をつ
きあわせて考えると、
②今は先師(親鸞)の教えが正しく受け継がれておらず、直接お聞きした真実の信心と異な
ることがあるのを嘆かざるをえません。これからも生まれてくる疑惑を思うのです。
③幸いなことに、ご縁あってよき師(善知識)と出会うということがなければ、どうして他
力易行門(念仏の教え)に帰依することができましょうか。
④師によらない自己流の解釈で、本願他力の教義を思い誤ってはなりません。いたずらな誤
解を避けるために、
⑤したがいまして、故親鸞聖人がお話し下さった教えの要旨の、今もって私の耳の底にとど
まりますところを記すのです。心を同じくする念仏者たちの疑問を晴らすためなのであり、
ほかに意図はありません。
【ポイント】
・面授の弟子である唯円の謙虚な姿勢と、行く末を案じる気持ちが伝わる。
・師の親鸞から親しく聞いてきた、忘れようにも忘れられない言葉の数々を、今こそ記さね
ばならないという、弟子の責任感がみなぎる文章。
・口伝→面授口訣、師資相承。師と弟子の直接的関係による仏法の授受=口伝を、仏教では
最重要と受けとめてきた。
【注】
ひそかに静かに、尊いものに向かって自分の気持ちを述べる謙虚な心で。
「竊=米倉にネズミが入って、そっと米を盗む」
愚案を回らして教えに対して愚かな考えをめぐらして
古今親鸞在世の古と、親鸞滅後二十年、三十年にもなろうとしている今。
口伝直接教えていただいたこと。
真信真実の信心。
後学相続の疑惑後に続いて学んで学んでいく人々が、疑いや疑問を持つであろうこと。
有縁の知識まことの師匠によらなかったならば、(先生や友だちのこと)
いかでかどうして
易行の一門自力修行のことを難行という。それに対して、「南無阿弥陀仏」と称するだけで
仏になることができる本願念仏を易行(容易な行)という。いつでも、どこでも、だれに
でもできる。唯一の教え。
法語「いくら道があっても登るとなると一つです」平野修
自見の覚悟「知ってるつもり」自分勝手な考え。「自見」は自己の見解。「覚悟」は了解の
意味。
他力の宗旨自我の思いの他のはたらき、阿弥陀仏の力。本願念仏の本旨。
乱る思い誤る。
耳の底に留まるところ心の奥底に刻まれて忘れられない言葉。
同心行者自分と同じく阿弥陀仏の本願に帰依する人々。
不審疑問や疑い。
散ぜんがため晴らすために。解消するために。
云々いいたいことがまだあるが省略する、という意味。
以上