明順寺「報恩講」法話レジュメ

報恩講でお話いただきました光明寺・小林尚樹氏のテープ起こしです。

「法名と終活―仏の教えに生きる」  東京6組 光明寺住職 小林尚樹氏

江東区にあります光明寺というお寺をお預かりしております、小林と申します。よろしくお願いいたします。午前中に帰敬式をお勤めになったとお聞きしました。帰敬式では法名をいただきましたよね。今日は、「法名と終活―仏の教えに生きる」という講題でお話をするように、ご住職からお聞きしておりました。

ご依頼いただいた理由としては、うちのお寺で終活セミナーをやっているからだと思います。終活ですから、例えば相続のことで司法書士さんに来てもらったり、介護のことであったり、エンディングノートの話であったり、それから保険のお金のことですね。老後のマネープランとか。2000万円必要だと言われますから。

昨日の終活セミナーの話は、フレイルのお話でした。フレイルというのは、略すと虚弱という意味です。今、元気な状態から、介護が必要になる間ですね。それをフレイルという。フレイル予防という言い方をします。体力的にも衰えが見え始めた時に、ここでもうちょっと頑張れば、介護が必要になるのをもう少し先延ばしにできるとか、もしかしたら少し回復して、良くなるとか。そのグレーゾーンのところを、フレイルというのだそうです。

そのフレイルの予防としては、口腔ケアが大事と言われています。訪問歯科の先生に来てもらって、口回りが大事ですよと。日本人は歯周病の確立が高いのだそうです。歯医者に行くのは嫌ですよね。だけど、歯だけではなくて、舌も綺麗にするとか、よく動かしてとか、そういうふうにケアすることで、身体全体のバランスが良くなるのだそうです。噛み合わせって段々衰えてきますでしょ。噛み合わせが悪くなると、転ぶ確率が上がるそうです。これは多分、食いしばる時に歯に力が入りますよね。そういう時に力が入らないと転んでしまうのでしょうね。

今日のお話に入りますと、まず朝ドラの『らんまん』の中に出てきた言葉を紹介したいと思います。牧野富太郎という植物学者をモデルにしたお話だそうです。明治時代に日本の植物に名前を付けた方です。洋名のものに和名をつけたり、誰も名前を付けていなかった草花に名前をつけたりした。殆どこの方が付けたと言われているのですね。

このモデルとなった槙野万太郎という人が主人公で、神木隆之介さんが演じていました。その言葉なのですね。「どの草花にも 必ずそこで 生きる 理由がある」と。

 

幕末の上野戦争で生き残った侍崩れの倉木という男が、挫折を抱え自らを雑草に置き換え、「なぜ雑草に金を払う?誰の目にも入らねぇ。入ったとしても、疎まれ、踏みにじられ・・・。踏みにじったことも誰も覚えてねぇ。雑草なんか生えていてもしょうがねえだろうが」と万太郎に言った時、万太郎は「雑草いう草はないき。必ず名がある!」と言い「わしは信じちゅうき。どの草花にも必ずそこで生きる理由がある。必ず!」と言ったのです。不思議なものです。我が家の玄関前の石の間から「雑草」らしきものが生えていたのですが、なんだかお花が綺麗で、検索してみたところ、「オニタビラコ」という名前のお花でした。名前を知ってしまったら、雑草とは思えないのですね。もう、抜けません。そこで、先の万太郎の言葉を思い出しました。名を知るということは、いのちの意味を知ることなのです。そこで生きる理由を知るのです。このドラマのモデルである、「日本の植物学の父」と言われた牧野富太郎さんは、多数の新種を発見し、名前を付けられました。「雑草という草はない」という言葉は、牧野富太郎さんの言葉として遺されているようです。私たち一人ひとりにも名前があります。名を持ったかけがえのないいのちには、その全てに、必ず「いま、ここ」に生きる意味があるのです。

 

その時に、歌を思い出したのです。スーパービーバーというバンドです。「名前を呼ぶよ」いう歌です。

 

今さら馬鹿みたいなこと言うけど

巡り合うことは やっぱり すごいね

知らないことがほとんどの世界で

互いに名前を呼び合っているなんて

 

苛立ち 八つ当たり 後悔したり

同時に手を叩き 笑い合ったり

それは平凡で取るに足らない日常

でも 二度と同じ日々は辿れない

気がついたとき 怖くなるくらいだ

 

愛しさ溢れる 時を超える

馬鹿みたいなことをもう一つ ねえ 今 楽しいな

言わずもがな ちゃんと守りたい そりゃそうだ

出会いが人生の全てだ って思った

 

名前を呼ぶよ 名前を呼ぶよ あなたの意味を 僕らの意味を

名前を呼んでよ 会いに行くよ 命の意味だ 僕らの意味だ

 

今さら過ぎてもう恥ずかしいけど

あの時はごめんなって思うこと

脈絡もなく伝えられる関係

それを大切と言わずになんと言う?

 

愛しさ溢れる 時を超える

馬鹿みたいなことをもう一つ ねえ 今 楽しいな

 

助けたい人に ずっと助けられている

ありがとう なんて こっちの台詞なのに

何ができるかな 今何ができるかな

考えた途端に とめどなく思い浮かぶ 顔 顔

そうか これが生きること

 

名前を呼ぶよ 名前を呼ぶよ あなたの意味を 僕らの意味を

名前を呼んでよ 会いに行くよ 命の意味だ あなたが

名前を呼ぶよ 名前を呼ぶよ あなたの意味を 僕らの意味を

名前を呼んでよ 会いに行くよ 命の意味だ 僕らの意味だ

 

名前を呼ぶよ 名前を呼ぶよ 何度も 何度も

名前を呼んでよ 会いに行くよ 何度だって 何度だって 何度だって

 

これ僕ね、はっとしたのです。名前を呼ぶことがいのちの意味だと。名前を呼ぶことが、あなたの存在そのことを意味している。いのちの意味なんて中々言わないですよね。でも万太郎と同じですよ。今ここに生きる意味があるということです。だから、名前を呼ばない関係は、流れていきますけど、名前を呼べる関係というのは、今ここに生きるということを確かめ合うような、そんな意味合いがあるなと思いました。名前大事です。

例えば、ジブリの「千と千尋の神隠し」。あれは隠れたテーマが名前なのです。千と千尋というのは一人の女の子です。元々は千尋という名前だったのですが、異世界に入ってしまって、千という名前で生きるのです。そこでハクという青年に出会うのですけど。この青年はね、自分が誰だかを忘れているのです。最後に名前を思い出すのですけど、ニギハヤミコハクヌシという水の神様だったのです。それを思い出した瞬間に、本来の姿に戻って、龍神みたいな感じで、空を飛んで、本当の姿に帰っていくということなのですね。

つまりは名前の意味ということです。名前を忘れているときには、自分が自分でないということですね。それが本当の名前を知った時に、自分が本当の姿になっていくということですね。僕たちは名前がありますけど、それはこの社会にあって、他人と区別して、付けられた名前ですよね。でも本当の名前は、僕たちはまだ知らないのではないか。そんなことを思います。

法名ということですけれども、どういうことでしょうかね。名前があるのに、もう一つ名前をもらうわけです。お釋迦様の釋という字が付きますね、釋〇〇と。女性は釋尼〇〇が入りますけど。親鸞聖人は釋親鸞と名のりました。お釋迦様の一文字をいただくということは、仏弟子になるという意味です。仏様の教えを生きる身となる。自分の人生、自分の生きていくことの価値観や、善悪の判断みたいなことでしょうかね。もしくは、迷ったり、立ち止まったりする時に、自分は仏教というものに尋ねていきますという、そういう人生の態度決定です。

僕らは自分の価値観で生きていますよね。でもそうではなくて、ものさしでいえば、皆、自分のものさしで生きるわけです。物事を測って、判断して選んでいる。この釋の字をいただくということは、仏様のものさしをいただくということでしょうかね。大切なこと、中心とすべきことをいただくと。仏の教えを生きる身として、私の人生が定まるという。そして、真宗門徒になるということです。

真宗とはどういう意味でしょうね。僕ら真宗門徒とこう言いますよね。宗というのは、ムネと読みますけれども、ムネという音の響きは、中心を表すのですよ。例えば身体の胸ですよね。家では屋根の棟。それがズレたら、屋根がおかしくなりますよね。この宗は、私たちが生きていく中心ということです。

浄土真宗には、宗に真という言葉が付いているのですね。真の宗ということです。本当に中心とすべきことという意味でしょうかね。それを依り処と言います。依り処というのは凄く大事な言葉です。自灯明・法灯明。これはお釋迦様の遺言と言われています。お釈迦様は人間ですから亡くなっていきますけれども、でも仏陀なので、亡くなったという言い方をしないで、涅槃に入られたと、そういう言い方をします。入涅槃ですね。お釈迦様が横たわって、涅槃像とか言います。森の中で、広いところで横たわっていて、周りにお弟子さんたちがいっぱい集まっていて、なんなら動物やら鳥もやってきます。みんなが仏陀の涅槃に入る姿を悲しんでいるわけですよね。まさに今涅槃に入ろうとする。

その人としてのいのちを終えようとする時に、仏弟子たちが、私たちはこれからどう生きていったらいいのでしょうかと。大切な方を失ったら、どうしたらいいのでしょうと聞いたのでしょう。仏陀がこう答えたと言うのですよ。この世で自らを灯とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を依り処として、他のものを依り処にしない。自らを灯としというのは、自分に灯かりをつけるということですかね。自分自身の問題として、他人事にしないで。別れは寂しいし不安かもしれないけれども、あなた一人が生きる上で、法、教え。仏陀という人に依るのではなくて、仏陀が語った教えに依れと。教えを灯かりとして、人生の灯として、その灯を依り処というふうに言い換えています。法、仏法、教えですね。教えを生きる中心として、他のものを中心とすべきではないという。こうおっしゃったというのです。つまり教えを中心として生きよと。人に依るのではないと。

僕らは親鸞聖人のことを宗祖と言いますね。教祖とか開祖と言わないのです。それは人に依っています。人をたよりにすると教祖になります。でも親鸞聖人は徹底して、人に依らない教えを伝えてくださった。この真宗という言葉はですね、親鸞聖人の主著である教行信証に顕浄土真実教行証文類という言葉が書いてあります。顕浄土というのは、浄土を顕かにするという。浄土を顕かにするというのが、教行信証のメインテーマです。教行信証で伝えたかったのは、浄土という世界を顕かにするという。そのための真実、真の教え、行、信、証。救いですね。文類というのは、引用してくるのです。浄土を顕かにする真実の教えとは、御経にはこう書いてある。先輩たちはこうおっしゃっている。だから私はこう考える。親鸞聖人の考えは3~4割なのですね。多くは引用なのです。こういう形を文類といいます。経典の引用、先輩たちの引用。そこから自分の思いを述べていくという形になっている。その最後にメッセージを残すのです。それはこういう言葉です。

 

竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。(真宗聖典 398頁)

竊かに以みればというのは、愚かな私の考えをここで述べさせてもらえばと。聖道というのは、一生懸命勉強したり、修行したりする歩みです。ほとんどの経典は聖道です。修行をするとか、理解するとか。救いの道がそういう形で説かれているのが聖道なのですね。そういう諸々の教えは沢山ある。だけれども、それを行ずる者も、それによって救われていく者も、久しく廃れていると。こうおっしゃっているのですね。

ここは親鸞聖人がそういう自力の修行者を批判しているわけではなくて、親鸞聖人が歩んできた道かなと思うのです。比叡山20年の歩み、つまり自力の修行ですね。そういうものでは親鸞聖人の迷いは晴れなかったというわけです。それを満足して行ずることもできなければ、それによって救われていくこともなかった。そして、浄土の真宗は証道いま盛なり。真宗が出てきます。真宗は本当の依り処だったのですね。真の依り処。それが浄土だというのです。浄土を真の依り処とする。こういう仏道、歩みですね。救いの道です。盛というのは流行っていたということではないです。鎌倉時代、お念仏の教えは嫌われていました。度々、法然親鸞という方々は、厳しい圧力を受けられますね。盛んだったわけじゃないです。

これは序文、メッセージです。その後にこの本を読もうとするものたちへのメッセージ。浄土を真の依り処とする、こういう歩みこそが、今この世にあって、確かな救いの道だと言うのです。僕はこれを読んで受け取るべきだと思っているのですね。いつの時代にあってもです。その時その時を生きる者にとって、浄土を真の宗とするという、こういう生き方が本当に救われていく道なのだと。こうおっしゃったのかなと思いますね。

この浄土という世界が難しいのですね。これはお一人お一人が出遇ってお感じいただく世界なのですね。本当に自分が帰っていくべき世界は、理想の世界なのか、それは私たちにかかっているというのでしょうかね。少し僕の受け取りをお話させてもらいますけれども、浄土という世界は、阿弥陀様がいらっしゃる世界です。阿弥陀如来がお作りになった世界と経典には説かれます。お寺の内陣は、浄土という世界を表しています。御仏具がみんな光り輝いてますでしょ。なので、浄土という世界は、光の世界なのです。その中心にいらっしゃる阿弥陀如来という仏様は、人間のような姿をとっていますけれども、あれは、本来目に見えないものを、仮のお姿をとって、僕たちに教えようとしている姿なのですね。何を教えたいかと言ったら、阿弥陀如来と言う仏様のはたらきです。

僕たちにとってどんな意味があるのか。それは、正信偈にあるように、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とこう言いますよね。そこに無量寿如来と。量ることができないいのちと、そして南無不可思議光、考えが及ばない光ですね。つまりいのちと光ということが阿弥陀様のはたらきなのですね。本来のお姿なのです。阿弥陀様は光です。親鸞聖人は、

 

この如来は、光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。    (真宗聖典 543頁)

阿弥陀如来は光だというのですよ。光とは具体的にいうと、智慧だと。教えだと。光がどこにあるかといういったら、照らされた者の上に、その姿、はたらきを表すということでしょうかね。そうであれば、親鸞聖人がこの阿弥陀如来という仏様を光だと。その光というのは教えなのだとこうおっしゃった時に、照らされるのは私たちです。私たち一人ひとりの上にその光が、すがたかたちを表すということですね。どう表されるかといったら、教えということです。本当に依るべきものは浄土だとこうおっしゃられます。

さて私たちは一体何に依っているかということですよね。浄土に依るべきであると、浄土の世界に依るべきだとこう教えられながら、私たちはそうではない世界を生きているわけですよね。本当ではないものを、本当だと思って生きているわけですよ。依るべきものが、いつか終わってしまうものだったり、いつか壊れてしまうものだったり。そういうものに依っているわけですよね。教えに照らされてみれば、教えの通りではない自分の姿が見えてくるというわけです。本当というはたらきに照らされてみれば、本当ではないというすがたが見てくるわけです。本当ということに照らされてみれば、私たちが依っているものが、仮ものであったり、偽物であったりということが見えてくると思うのです。その見えてくるということは、私の上に教えがはたらいているということです。うまくいっていれば、そういうことすら考えないですね。だから壁にぶち当たったりですね、そう思っていたものが崩れたり、失ったり、何か揺らいだ時に、これは本当ではなかったのだと。じゃあ本当は一体何だろうと。そこに気が付きますよね。そう気が付くところには、教えがはたらくということです。教えが私の上に、はたらいて、そのすがたを表すと。これが真宗門徒、仏の教えを生きるということかなと思うのですよね。

なので、今日はお名前から入りましたけど、法名をいただくということは、この釋の字をいただいて、仏の教えを依り処にして生きるという。こういう態度決定です。私の今のいのち、人生を、仏の教えを中心にして生きると。こういう選びをするわけです。その名前をいただくことで、名前は、今ここに生きる意味を確かめることだと。つまり、こういう時代にあって、自分はどう生きるべきかということを、法名という名前を持って、自分の人生が明らかになっていく。こういう大切な意味があるのではないかなと思います。

僕はお寺で終活セミナーをする時に、毎回必ず30分僕が話をするのですね。仏教の終活という話をするのですけれども。終活という言葉は新しいですから、仏教にそういう考え方はありません。それは僕なりに、終活ということを考えてきた時に、色んなものを片付けたり、整理したりしますけれども、最後、どうしても解決できない問題がきっとあるのだろうと思うのです。それは、このいのちが必ず終わりを迎えるということです。それは怖いですよね。不安だし、寂しいし。でも連れ合いとか、親や子どもたち、そういう人たちと一緒に、考えたり、話をしたり、それが大切かなと思うのです。その時に、この私一人が生きる意味において、仏の教えが確かな依り処になると。やがて死を迎えるいのちだけれども、不安なことはいっぱいあるけれども、だけど、仏の教えを依り処にして生きていくと。これは僕の思いですね。

死にゆくいのちを仏の教えを依り処に今生きて往く。往生と書くじゃないですか。一般的には往き生まれるということです。つまり、浄土という世界に往って生まれるなのですけども。それだけですと、死んだ後の話になりますよね。でも親鸞聖人は、そうはおっしゃっていないです。往くのは後だとしても、今、確実に浄土に往く身が定まると、これを信心と言いますけれども、そのことにおいて、今この不安ないのちを生きているとおっしゃるので、生きて往くと。これは普通に生きているということではなくて、仏の教えに出遇って、これを依り処にするのだという生き方です。それは必ず浄土への道となって、この不安を、私のいのちを支えてくださると。そういうことに出遇っていくことが、僕は仏教の終活なのではないかと思います。

終活という言葉を入り口にして、でも僕らは生きるわけですから、死んでいく準備をするわけではないですよね。不安を整理しつつ、でも今を生きるわけです。そこに僕は仏の教えを依り処にして、このいのちを生きて往くと。定まった道を生きて往くということです。そのことを、大切にお伝えしています。それは人生の選択ですからね。選びです。それがこの法名をいただくということです。名前をいただくということです。釈の字をいただいて、仏弟子として、諸仏の教えを自分の人生の中心にするのだと。依り処として生きて往くのだと。このことが大切なことではないかなと思うのですね。終活と仏教は違ったものではなくて、僕は一色に考えたいなと思います。

うちの寺でも帰敬式、おかみそりをやっているのです。うちは三回お勉強してもらいます。真宗門徒入門講座といって、1月、2月、3月に来てもらって、お勤めのお稽古とか、今のこんなお話をすのですね。4月に花まつり法要をするので、その午前中におかみそりをして、4月ですから、お釈迦様の誕生と、親鸞聖人の誕生と、そして新しい仏弟子の誕生と。この三つの誕生日をお参りしているのですね。やっぱりこの帰敬式、これが大事だと僕は思っています。この帰敬式を受けていただくという方を見出していくという。これが僕は真宗のお寺の大切な意味かなと思うのです。色んなきっかけがありますよ。仏事だったり、うちの寺だったら終活セミナーに来たり。そのことによって、自分が生きる中心を仏教に聞いていきたいなと、そう思っていただけるように、僕たちが日頃からの関わりを持たなければならないなということを思います。

今日は、帰命式をお受けされた方は、まことにおめでとうございます。おめでとうございますというのは、人生が定まったということですから、大切な法名をいただくということには、意味があるなということを改めて思いますので、そのようなお話を今日はさせていただきました。最後までご清聴くださいまして、ありがとうございました。以上で終わりといたします。