「秋季彼岸会法要」執行

9月23日午前11時より明順寺「秋季彼岸会法要」が執り行われました。台風の影響で天気が心配されましたが、幸い雨になることもなく本堂からロビー席まで大勢の皆さまが法要にご参詣下さいました。

それにつけても台風15号による千葉県の被災状況は深刻なものがあります。まずもって被災された皆さまにお見舞いを申し上げます。

またこの度は、宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年の慶讃法要についてご寄付をお願いさせていただきました。厳しい経済状況のなか、ご懇志をたまわりまして、この場をおかりして厚くお礼申し上げます。

副住職からのお話

【第十二願 光明無量(こうみょうむりょう)の願】
たとい我、仏を得んに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。(たとえ私が仏になっても、光明に限りがあって、普く諸々の衆生の闇を照らすことができないならば、私は仏にはならない。)

【テーマ:南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう】
阿弥陀仏のはたらきは本願大悲智慧真実。または光、香と様々な言葉で表現されています。今回は、光となってすべての者を救い遂げたいという阿弥陀仏の決意が特に表現されている願だと感じました。そのはたらきをいただくとどうなるかということが『教行信証』に書かれています。

それ衆生ありて、この光に遇う者は、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍し、善心生ず。

三垢(さんく)は三毒とも呼ばれており、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)のことをいいます。貪欲は、欲張りなこと。瞋恚は、怒り、憎しむこと。愚痴は、物事を正しく判断できないこと。そういう心が消滅すると、身体も心もやわらぎ、躍り上がって喜び、善き心が生まれてくるという意味です。

慶讃法要のテーマには、「人と生まれた」と書いてあります。欲にまみれ、怒り狂い、本当に大事なことを受け取ろうとしない私たちに、「あなたの姿は人の姿になっているのか。闇を破り、人になりなさい」という呼びかけをくださっているのではないかと感じました。

そんな人間のはかなさを表現してあるのが、「白骨の御文」であると思います。朝には元気な姿でいたのに、夕方には亡くなってしまうこともある。それは今日かもしれないし、明日かもしれない。順番通りとも限らない。そういう身を生きているのだ、と書かれています。後悔なく命を全うできるように、今の生活、自分の考え方を見つめ直すということが大事なことではないでしょうか。

人として大事なことの一つには、生きとし生けるものと共に生きるということがあります。自然と共に生きようと思えば、お庭の草花の手入れをする。食事は命をいただいているのだと思えば、いただきますと言う。動物と共に生きると思えば、最後まできちんと面倒を見る。とても豊かな人間の生活であると思います。私たちはもうすでに「人である」のではなくて、仏法を通して「人になる」のです。そのことを日々、大切に確かめていきたいと思います。