明順寺「報恩講」つとまる

令和元年12月8日午前11時より明順寺「報恩講」が執り行われました。ご参詣いただいた皆さま、ご協賛いただいた皆さまに有難く厚くお礼申し上げます。

一年は報恩講に終わり、報恩講に始まると言われています。毎年こうして報恩講が終えると、今年も終わるのだなと些かの感慨を覚えます。

講師の広瀬先生にも岐阜からご出向賜り、感銘深いお話を伺うことができました。厚くお礼申し上げます。いずれテープ起こしを掲載させていただきますが、先生のレジュメをここに載せておきます。

なお、報恩講に先立ち、午前10時より「帰敬式」を執行いたしました。今年の参加者は4名。仏弟子の誕生に衷心よりお慶び申し上げます。

廣瀬 惺 先生のレジュメ

[1]白骨の御文
(原文)
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中(しちゅう)終(じゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事(こと)をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我(われ)やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。

されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨となれる身(み)なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔(こうがん)むなしく変(へん)じて、桃(とう)李(り)のよそおいをうしないぬるときは、六親(ろくしん)眷属(けんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更(さら)にその甲斐(かい)あるべからず。さてしもあるべき事(こと)ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々(なかなか)おろかなり。

されば、人間のはかなき事(こと)は、老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかいなれば、たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

(意訳)
さて、浮雲(うきぐも)のような、定(さだ)めなき人の世のありさまを、つくづく思いみますに、まことにはかないものは、始めから終わりまで、幻(まぼろし)のようなこの世の一生であります。いまだかつて、万年の寿命を受けたという話を聞いたことはありません。一生は、過ぎやすいものであります。末代(まつだい)の今の時に、誰が百年の命を保つことができましょうか。自分が先になるか、人が先になるか、今日かもしれず、明日かもしれず、いずれ死にゆく人は、あたかも木の根元(ねもと)のしずく、葉(は)末(ずえ)の露(つゆ)の後先(あとさき)よりも激(はげ)しいといわれています。

まことに、朝(あした)には血潮が通(かよ)う紅(くれない)の顔も、夕べにはただ白骨となる身であります。ひとたび無常の風が吹けば、二つの眼(まこ)はたちまちに閉じ、一つの息が永遠(とわ)に絶(た)えてしまえば、紅顔(こうがん)は空(むな)しく変わって、桃(とう)李(り)のような美しい姿も消え失せてしまうのです。その時に、父母兄弟や妻子眷属(けんぞく)が集まって、どれほど歎(なげ)き悲しんだとしても、もはや、どうにもできるものではありません。そのままにして悲しんでいるわけにもいかないので、野辺(のべ)に送って、夜半(よわ)の煙(けむり)となってしまうならば、残るものはただ白骨のみであります。悲しいというくらいでは、とても、この心をあらわすことができるものではありません。

されば、人間のはかないことは老いも若いも、どちらが先とも定(さだ)めのないこの世であります。どのような人も、早く後生(ごしょう)の一大事に心をかけて、阿弥陀仏を深くたのみ、念仏を申すべきであります。あなかしこ あなかしこ。

[2]本願についての曽我量深師の言葉
⑴阿弥陀如来さまが実在しておると、そういうようなことを何も証明する必要はない。ただ我われが──この人生、あるいは生死(しょうじ)問題ですね、生死問題──そういうものに目覚(めざ)めていろいろ悩みをいだく。なんとかしてこの自分の悩みを解決しなければならんと。(中略)そういう機縁(きえん)というものがあって、私どもはお念仏というものに接するわけであります。(中略)だから、仏さまが実在するというようなことは、私どもにわからんことでありましょう。畢竟(ひっきょう)ずるに、まずこの自分、自分自身というものが一番もとでありましょう。

そういうわけでありまして、まず仏さまがあって信じなければならんというわけではないので、むしろ我われがですね、まずこの自分、自分というものが一番大事なんでしょう。仏さまよりは自分自身のほうが大事なんである。その自分自身が大切であるけれども、その自分自身がですね、本当にこの危機、危機迫(せま)っておるんである。そういうので、仏さまという──何かそういうもの、自分を助けてくださるというお方を求めるのでありましょう。

自分というのはまったくの孤独で、仏さまがおいでにならないならば、まったくの孤独でありましょう。その孤独の自分を助けよう、それを助けようというのが仏さまである。それが仏様の本願というものである。(抄録『説教集』6・251)

⑵如来の本願とか、如来の光明とかいうようなことはですね、こういうことは、これは竊(ひそか)に以(おもん)みるべきものである。こういうことでありましょう。

つまりこの──ですね、他力本願、他力救済のおみのりというもの、すなわち浄土真宗のおみのりというものはですね、これは竊(ひそか)に以(おもん)みるところにある。こういうことをご開山聖人がおっしゃった。

本願とかあるいは光明とかいう、そういうことというものはですね、これはわれらの煩悩(ぼんのう)妄念(もうねん)のですね、われらの心のですね、その心のさらに深いところに、その深いところにわれらは感ずるものである。こういうのでありましょう。(中略)ほんとうに煩悩妄念の心の深いところにかすかに感ずるものであり、かすかに息(いき)づいておるものにちがいない。こういうんでありまして、これは竊(ひそか)に以みるというところにある。これがすなわち自信(じしん)教人(きょうにん)信(しん)のおみのりであろう、と、こうわたくしは信ずるものであります。 (抄録『説教集』10・44)

導師焼香用金香炉
導師用柄香炉
輪灯には飾灯芯
仏花
小天華さんの奇術
6代目左楽師匠
帰敬式のようす