明順寺「盂蘭盆会法要・講演録」~終活の迎え方~

二〇一九年 七月 十五日 明順寺盂蘭盆会法要
講師:日野隆文氏
テーマ:「終活の迎え方」

皆さん、どうもおはようございます。ご紹介に預かりました、六月三十日まで東京宗務出張所長をしておりました日野隆文でございます。七月一日からは京都に急遽転勤になりまして、六八〇ほどのお寺を管轄させていただく、京都教務所の所長に転勤を致したということでございます。

このお盆ということになりますと、私は色んな形でご法話をさせていただくことがあるわけですが、やはり私たち一人ひとりにはそれぞれ大切な方がおられ、そしてその方が亡くなっていったということにおいて深い悲しみを覚え、このお盆あるいはお彼岸の機会に、改めてその方を思い起こし、そして本堂あるいはお墓のところで、もう一度その方と出遇い直していく。そういうことをご法話としてお話をさせていただくわけでございます。

今回はこちらの明順寺のご住職様から「終活」についてということで。法話ではなく講演と書いてございましたので、これは一体どういうお話をすればいいのかということを内心迷いながら来させていただいたようなことでございます。

明順寺のご住職さんは、以前、全日本仏教会の理事長という。日本には色んな仏教の宗派、教団がございますが、それが全体で作っておる仏教会。これが全日本仏教会と言いますけれども、そこの一番トップにおられた方でございます。それで私が三年前に東京に参りまして、その時から仏教会で培われた色んな方をご紹介してくださいました。そういった中で本当に良い出遇いをさせていただいたわけでございます。

そういったところから私が東京の所長でいる時に、この終活サポート講座というものをあえて開いてみようと。“人生を考える”終活サポート講座。実はこちらのご住職さんとの出遇いがなければ、私はひょっとしたら発案していなかったかなと思う訳であります。この終活、これをどう私たちはいま考えたらいいのかということについて、お話をさせていただきたいと思います。

この終活というと、いわゆる遺産相続ということもあろうかと思いますが、もう一つ私たちには大事な相続がある。親として、祖父祖母として、それこそ次の世代に伝えていかなければならない大切な相続ということがある。そういったことを結論としてお話をさせていただきたいと思っております。

いまこの日本の社会の中で「終活」という言葉が非常に流行っております。すいません、忘れない内に申し上げますが、お配りしたものは六月二十二日に既に開催したものでございまして、間違って来年の六月二十二日に行かないでいただきたいということがございます。これはあくまでも参考で持ってきました。

いわゆる終活ということが非常に大ブームで、この考えの根底には、いかに人に、子どもたちに迷惑をかけずに自分の始末をつけていくか。こういうことが何か世の中の終活の中で雰囲気的に言われておることかなと思います。

このチラシの後ろ側を見ていただきたいのですけれども。東本願寺の首都圏を管轄するところが練馬区にある東京宗務出張所ですけれども、そこで開催したのは、“人生を考える”終活サポート講座ということです。一つ目にはお墓から始める終活。

二つ目に終活と葬儀。これにつきましては実は非常に懇意にしてくださっております東京都の葬祭組合理事長の濵名さんという方が行なってくださっています。葬儀にも色んな形態がございますね。通夜葬儀というものは当たり前のことでございました。けれども最近は、通夜を営まずに葬儀のみということもございますし、中には直葬という、葬儀を営まない、そのまま窯の方へご遺体を持っていって、そして簡単なお勤めをして焼いてしまう。そういう直葬。そういう中で葬儀が終わった後に、その残されたご家族が改めて相談に来られるというのですね。色んな後悔をされているという。そういったことをお話してくださいます。

また三番目の相続のソナエということがございますが、これは荒川さんという、これは東京のお寺さんの三男坊です。その方もお坊さんでありまして、いまは弁護士をされています。その方は弁護士の視点からのいわゆる遺産相続ということと、もう一つお墓やお内仏、お仏壇ですね、そういった祭祀財産。そういうものの区別をきちっとされて、そしてどういう相続に問題があるか、どういう形で相続をしていくか。そういったことを相続のソナエということで弁護士さんがお話をしてくださいます。

そして四番目に、ここが実は私たち僧侶が本当にお伝えしなければならないところです。誰のために仏事を行うのか。仏事というのは葬儀、ご法事ですね。そういった仏事を誰の為に行うのかと。このことの本当に大事な意味とはどういうことなのか、そういうことをこの浄土真宗の教えに基づいてお話をさせていただく。そういった形でのこの“人生を考える”終活サポート講座というものをやらせていただいています。また恐らく今年も、九月か十月あたりに開かせていただこうかなという予定がございますので、またご縁があったら一度ご参加もいただけたらと思います。

話をもう一度戻していきますと、この終活が大ブームということがございます。そこの根底にはいかに人に、子どもに迷惑をかけずに自分の始末を付けていくかということ。独居で頼る人がいないから、自分で自分の始末をつけなくちゃならない。そういった方も増えているということもお聞きしておりますし、そのような状況になってきたのはやはり社会の大きな変化ということがございます。

昔であれば、家族で三世帯が同居するということが当たり前であったわけですが、それが逆に珍しくなって殆どが核家族。子どもたちは遠方に住んで、親の近くに住んでいないと。あるいは近くに子どもたちがいても別世帯。また世の中離婚とかですね、そういったことも増えております。こういった大きな生活形態の変化ということも、この終活の背景にあるのではないかと思います。昔はお墓等の祭祀財産は長男が継承するのが当たり前でございました。しかし憲法も変わり、法律も変わり、教育も変わり、随分昔とは変わってしまいました。

この日本社会というのは、昔はいわゆる農耕定住型、そういった日本の在り方でありましたけれども、いまは移住型社会に変わりました。そのような変化の中で日本固有の風習も薄れ、また倫理観や価値観も変わって、親の遺産相続を巡って子ども同士が争う。そういうことも起こってきておるということをお聞きしております。

そこで自分が元気でいるうちに家や土地などの不動産をどうしていくのか。あるいは預金や株の相続をどうするのか。あるいは仏壇の相続をどうするのか。晩年に入る介護施設をどうするのか。亡くなった時のお葬式をどうするのか。先祖のお墓や自分が入るお墓をどうするのか。死んだ後のこと、すべてを子どもたちに任せるということではなくて、親として先に色々考え、処分できるものは処分すると。そして相続するものは問題が起こらないように相続できるようにして安心していのちを終えていこうと。そういう風潮が世の中にいまあるのではないかなと思うのです。

また同様に、子どもたちが最後迷わないようにということで、遺言書を作成したり、エンディングノートを書いたり。そこに自分の考えを書いて、葬儀のことやお墓のことを親として事前にどうしてもらいたいかということを子どもたちに伝えていこうとされているわけです。そのようないまの世の中の人々の動向に合わせて、それこそ保険会社、信託銀行、葬儀社、弁護士、会計士、司法書士、行政書士、税理士、あるいは様々な企業や法人が活発にビジネスを展開している。そういったことが世の中に起こっておるということがあります。

確かに現実的な課題、問題を本当に沢山持っておられるわけでございます。土地や建物の不動産のことや貯金や株や、そして株等の相続のこと。また相続に関わる税金のことをどうするのか。あるいは子どもたちが、争いがないようにということで、争い事を避ける為の遺言書を作成すると。これらの対応を事前にやってよかったと言っておられる方もおられます。これで安心だとおっしゃっておる方もおられます。ただし、ある分野では親の思いを先行させて、かえって子どもたちに後悔をさせているということも実は起こっております。それはエンディングノートに書かれた葬儀のことや、お墓のこと、ご遺骨のこと、そして埋葬等について後悔しているということがあります。

それは一つに、親としては子どもたちに煩わしさや迷惑をかけないようということで、お葬儀は最小限度のもので営む家族葬でいいと。中には葬儀さえもしなくてよいというようなことを書かれておられる方もおられる。あるいは私は海が好きだったので、お骨はすべて海に撒いてほしい。あるいはセスナ機ですね、飛行機、その飛行機を昔、運転されていたのでしょう。セスナ飛行機で空を飛ぶのが好きだったから、空に遺骨を撒いてほしいという。あれこれと自分の理想を書いておられるのですね。もう一つお聞きしたのは、あるおばあさんは花の名前は忘れたのですけれども、日本にある花ではなくて海外の花、その花が大好きだということで。私が亡くなったときにはその花の祭壇で送ってほしい。そしたらその花が高かったみたいですね。そういうようなことで苦労されたというようなこともあるのです。

家族葬とかそういったことで実は子どもたちが後で困ったということはどういうことかと言いますと、最小限度の家族葬でいいと書いてあったので、親戚にも殆ど知らせなかったと。すると、後になって何故知らせてくれなかったのか。世話になったおばさんなのに、親戚なのに水くさいじゃないか。最後に手を合わせたかったのに残念だと。そういうことを後で言われたというのです。その後、何かにつけて気が引けて、法事などのご案内もせずに、親戚の皆さんともどんどん疎遠になってしまったと。何か葬儀の形を通して大事なものが失われていったというようなことを言っておられる遺族の方がおられます。

また家族葬だからということで、知らせがなくて、後になってその方が亡くなったということを知った友だちや近所のご縁の深かった方が、せめて手を合わさせていただきたいということで尋ねて来られる。その姿を見て、何か申し訳ないことをしたように思うという、そういう後悔をされている方もやはりおられるわけなのです。

そして葬儀を営まなくて直葬でいいと。そういう形でエンディングノートに書いてあったということで、そうされた方もいらっしゃいます。しかしあまりにも呆気なくて、本当にこれで良かったのかと後悔されていると。単なる遺体処理をしただけみたいで、親を粗末にした、あるいは法名もなく今後どうしたらいいのかわからないということを後で言いに来られる方がおられます。私がおりました練馬の真宗会館におきましてもそういう方が結構おられるのですね。直葬をしました。けれども本当にこれで良かったのでしょうかと。そういうご相談にも応じていたことでございます。

もう一つ、海や空へ散骨をされた方はどうおっしゃったかというと、お骨を撒いた後、その後しばらくして、どこに向かって手を合わせたらいいのかわからない。法事などもどうすればいいのかわからない。親は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。そういう後悔をされている。そういうことを葬儀屋さんの濵名さんが実例としてお話をしてくださいました。

私は、この遺産相続や税金対策に関する専門家ではございません。ましてやいわゆる終活の専門家でもございません。けれども私は一人の宗教家と言いますか、一人の浄土真宗のお坊さんでございます。南無阿弥陀仏のお念仏を称える、それをいただいていくお坊さんとしてこの現状ということについてどう思うところ。そのことについて少しお話をしていきたいと思っております。

この終活という言葉。これはですね、いわゆる自分の身に付いた色んな財産など、自分自身の外に付いたものですね。それをどう始末していくかということが終活。不動産や、預金や色んな株や色んなものがありますね。自分の身の外に付いたもの。これをどう始末していくかということが終活だと思います。けれども、私が思っている終活というのは、もう一つある。これは私の造語です。私が作りました言葉です。「宗活」と。宗教の宗に活という。このことが実はもう一つ人間にとっては大事なことなのだということがあろうかと思います。

この「宗」という字は、要という意味ですね。要。扇の要ということになれば、その要一点、それを失えばあの扇、扇子はバラバラになってしまう。けどそのバラバラなものを一点に繋ぎとめて扇子たらしめる。扇たらしめる。つまりこの要という字は、宗教の宗というのは、それこそ煩悩渦巻く、ああだこうだといって、これが良い、あれが良いというふうにバラバラになったこの生活自体が、一点の要において繋ぎとめて、人間たらしめるという人間の要。この宗という字はそういう意味なのですね。ですから私たちにはこの要である宗活、本当に人間というものは一体どういうことを大切に生きていかねばならないのか。そしてそのことをやはり私たちの子どもや世代を超えて伝えていく、そういう相続がもう一つ大事なことがあるということを私は思っております。

それでこの終わる活ということはですね、いかに自分の始末を付けていくか、それを課題としますが、もう一つ、私がいま申しました宗教の宗における活は、私はいかなるものとしてこの人生を生き、このいただいたいのちをどう本当に全うしていくのか。そういう人生そのものの課題が、もう一つ大きなものが残っておるということであります。

私たちはどれだけ自分の身の回りの処分や整理ができて、始末が付いたということがあったとしても、本当にそれで安心かと。むしろ、これはこうした、土地はこうした、もうこれで全部整理がついた、さて。さて。それでどうなのだと。あらゆることはこれで安心だろうと。人間というのはいくらそういうものが全部片付いたとしても、それこそ空しく終わる人生は悲しいという。もう一つ人間が持っている本当の精神的な課題が、実は残っているということがございます。

人間、誰しも我が人生これで良し、深く頷いていのちを終えていきたいという深い深い願いに促されております。それは私がこうやって生まれてきたことにおいて、自分が頷いていける大事な意味を見出していきたいと。そういう深い、いのちの要求が実はございます。空しく終わる。この空しく終わるということが本当に人間にとって一番悲しいこと、そう私はいただいております。源信僧都という方が『往生要集』に書かれている言葉があるのですね。

我、今、帰するところ無く、孤独にして同伴無し。

これはどういうことかというと、私には帰るところがない。孤独で一人ぼっちであると。これを地獄だというふうに源信僧都は言われるわけです。つまり孤独。独りぼっち。たとえ家族と一緒住んでいても孤独ということがあるのではないかと。このことが実は人間にとって一番たまらない地獄なのだと。つまり関係性がなくなっていくということ。そこに空しさということが常に私たちに迫りくるわけであります。ある若い学生さんの言葉があります。

家出したい、一人暮らしの部屋にいるのに。

これどうですかね。私も若いとき煩わしいなと思って。大学に行ったときに始めて一人暮らしをした。それはもうルンルンでした。そうすると本当は、一人暮らし!やった!と思ったけれども、家出したい、一人暮らしの部屋にいるのにというこの背景には、やはり孤独。つまり人と人との関わりを本当に失った、その孤独感。そのことを言い表しているのかなと思うのです。

大阪に八尾別院というのがあるのですよ、別院さん。そこの門徒の方にマキノさんというおばあちゃんがいます。そのマキノというおばあちゃんが言われた言葉にこんな言葉があるのです。

昔は何もなかったが、何かがあった。
今は何でもあるが、何かがない。

そういうことをですね、言われております。どうですかね。この何かというのは、皆さん色々と自分で想像してみていただくといいのかなと思うのですが。ここに例えばですね、

昔は何もなかったが、人情があった。
今は何でもあるが、人情がない。
昔は何もなかったが、優しさがあった。
今は何でもあるが、優しさがない。
昔は何もなかったが、人と人の助け合いがあった。
今は何でもあるが、助け合いがない。
昔は何もなかったが、思いやりというものがあった。
今は何でもあるが、思いやりがない。
昔は何もなかったが、家族と言えるものがあった。
今は何でもあるが、家族と言えるものがない。

こういうことを私は当てはめさせていただきました。人情とか優しさとか助け合いとか思いやりとか家族と言えるものとか。実は言葉に共通することがあるのですね。その共通することは、すべて人と人との関係性なのです。人と人との関係性。どうもそこが、昔は何もなかったが、何かがあった。今は何でもあるが、本当ですね、どこに行ったって便利ですからね、何でもあります。けど何かがない。

そこになくなってきたなと、マキノというおばあちゃんが言っておられるのは、人と人との関係性ではないか。つまり、人と人との間の関係性。つまり人間なのですよね。人間。私たちは人間だ、人間だと言いますけれども、私たちが人間だと言えるということは、それこそ人と人との関係性を生きる存在なのだ。そこに本当の喜びを持ち、そこに悲しみを持つ。これが人間なのです。つまりこの人と人との関係性の中にそれこそ豊かさを持ち、人と人との関係性の中にそれこそ悲しみを持つ。そういうことがあります。

ですから私たち人間というものは、この一人ひとりここにおられる皆さんも気が付いたら生まれておりました。そしてこの生まれてきたことの本当の喜びというのは、実はこの関係性なのですね。ここにどういう豊かな関係性を持つのか。世の中は全部人を区分していきます。人間の考えというのは。あいつは出来る奴や、出来ん奴やとかですね、やっていきます。けれども私たちのいのちそのものが持っている願いというのは、水平でお互いに大事だねと敬い合える。また悲しみや痛みをお互いに分かち合える。そういう柔らかで豊かなこの関係性を、実は私たちのいのちそのものが求めておる。こういう言葉がございます。

人間には生まれてからの願いの底に、生まれながらの願いがある。

生まれてからの願いというものはどういう願いかというと、私たちは生まれてからどんどん自我が発達しますよね。ああだこうだこれがいい。私の我執に基づくあれこれです。それが生まれてからの願い。実は生まれてからの願いというものが、すべての苦しみを生んでいくということを仏法ではきちっと教えているのですね。

その一つの典型が、常楽我浄。これは私たちの理想です。これはどういう理想かというと、どうですか皆さん。いつまでもいつまでもお肌がつるつるで、いつまでもいつまでも髪の毛がふさふさで、いつまでもいつまでもこのことが続いてもらいたい。いつまでもいつまでも生きていたい。これが私たちの理想だというのです。けど、仏教はどう教えるかというと、諸行無常ということを教えますね。必ず滅する。そういうことと真反対ですね。いつまでもいつまでもと言ってね。

テレビとかでも夜になるとですね、お昼もそうですかね。このスッポンエキスがどうこう言ってね、シジミは、スッポンは、コラーゲンコラーゲンっていって。あと30分以内に電話かけて買ってくれたらあとこれだけ付けて一万円とかやっていますね。大流行りです。あれ全部みんないつまでもいつまでもという理想を立てている。けど真実は諸行無常である。

楽は、楽でありたい、楽しくありたい。常に楽でありたいということが、そういう私の理想を仏教では一切皆苦と言います。すべて苦である。何故すべてが苦なのかというと、私たちの分別ですよね、これは良いこと悪いこと。これは楽しいこと。この頭が、常に理想を立てている。その理想というものに立っている限り、必ず苦というものをいただくのだと。貰うのだと。

続いて我ですね。これは私が私が、自己中心ということです。我が我が、私が私がそういう私の我執が実は苦しみを与えてくる。この私が私がということを言いますけれども、よくよく考えてみると、仏教では諸法無我といいます。無我ですね。我無しという教えですね。私が私がと思っている私たちが、実はよくよく自分のことを考えたら、すべていただきものでしょう。自分のいのちも、小さい頃生まれておっぱいいただいて、おむつ変えていただいてね、そしていま色んな形で仕事をさせていただく。あるいは自分が今日まで来た中において、よくよく考えてみれば、すべてご縁によるいただきものである。だから自分だと言えるような立派な自分はどこにもいないということなのです。けれども私たちは俺が俺がといってぶつかり合う。そこに苦がある。

そして浄。これは私が正しい、私が正義である。間違っているのはお前なのだ。私もよくお寺に帰りますとね、私の坊守さん。つまり私の妻と家の中で喋っている中で、どちらも正義なのですね。そうすると何が起こるか。家庭の中でお互い私が正しいという。そこで起こるのは戦争です。戦争が起こる。それが夫婦喧嘩。いわゆるアメリカのトランプさんとかね、日韓関係とかぐちゃぐちゃになっていますけれども、全部私が正しい、お前が間違っている。俺が正義でお前が悪だ。そういうことが実はまた私たちに苦しみを与えていく。これは人間が持っている理想なのですよね。

この理想がつまり人間に生まれてからの願い。けれども、生まれてからの願いの底に生まれながらの願いがある。人間というのは生まれてからそういう色んな我執というものが備わりますから、そういったところで色んな理想を立てて、思い通りにしていきたいということがある。けれども、そういうものが、いのちそのものが持っている願いをも見失わせてしまう。その命の願い。生まれながらの願いということ。

先程、皆さんがお勤めをされた「正信偈」の一行目です。「帰命無量寿如来」というね。このいのちそのものの願い。これを無量寿。この寿という字は、めでたい時に見たりしますけれども、いのちと読みますね。つまり私たちの思いでは量ることができない寿(いのち)そのもののはたらき、仏ですね。はたらきがある。そういうことがあります。

それからこの無量寿というのが、これが南無阿弥陀仏ということなのです。私たちの煩悩を渦巻くこの頭の底にいのちそのものに疼いておる大事な大事ないのちの願いを南無阿弥陀仏というのです。阿弥陀仏と無量寿如来とあります。一緒なのです。もう一つのお名前なのです。阿弥陀仏というのは無量寿仏なのです。量りなきいのちの願いなのです。はたらきなのです。そのことが込められた南無阿弥陀仏という。お念仏と言いますね。皆さん南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えておられるのは、自分のこの生まれてからの頭の中にできてきた分別物事、これは良し、これは駄目、役に立つ、立たん。こうすれば楽だ。こうすればいつまでもべっぴんでおれる。若くおれるとかね。そういうことの底にある。

思っていた通りに行くと本当は幸せなのだと思うのですよ。人間というのは。けれどもいくらそのことを描いたって、必ず苦になるよと。そのことをきちっと教える上においてもう一つ。実はいのちそのものに備わった願いがあるのだと。そのことが人間というものは、そのいのちそのものは水平で互いに敬い合い、そして痛み悲しむ人をその言葉が痛みとして、そういう豊かで柔らかな、そういう関係性を実は一番の喜びとして生きているのが人間なのです。

どれだけ財産をこうして、これはこうしてという終活、これは現実の問題としてこれは無視することはできないと思います。けれどももう一つ大事に相続しなくてはいけないことは、親としてあるいは祖父として、あるいはおばあちゃんとして、それは人間というものはもう一つ大事なことがあるよと。勝つか負けるかの世界。経済市場というのはそうですね。経済社会というのは勝つか負けるか役に立つか立たないか。どんどん人までそういう形に見ていく。その価値基準で。そうなってきたときにどうですか。

生まれたときは若い。老病死を抱えているこれは絶対に避けられない。役に立つか立たないか。これ全部人間の存在。そこを量る価値にまでされたらどうなります。年老いて、非効率的になり、老病死でしょ。合理的ではない、人間というのはね、歳を取って不合理になり、役に立つか立たないかみたいなそういう体の動きも悪くなりますよね。私、五十四歳ですけれども十分老眼もきついし、ようわかります。ほんまに。そのいまの世の中の経済的な価値基準だけで、私たちが物事を損だ得だ、これはこうしようああしようということでやったとしても、じゃあいずれ死を迎える者は、何のために生まれてきたのかということになります。

最後役に立たなくなって、ゴミになるために生まれてきた。そうじゃないよと。生まれたことにおいては大事な大事な意味があるのだと。それは役に立つか立たないかとか、損か得かとかそういうことをもっと超えたいのちそのものに私たちは大事な大事な意味がある。そのことを私たちは仏法の教えに問い続けてきたわけです。私が生まれてきたことの意味を尋ねてきた。

今度、二〇二三年に立教開宗記念法要というのが本山で勤まるのですけれどもね、そのテーマが「人と生まれた意味をたずねていこう」です。このことを私たちのいのちそのものが持っている願い。それを南無阿弥陀仏。

そこで最後のところでお話したいと思うのですが、ご住職さんと色んなことをご相談いただきたいということです。お葬儀のこととかそういったことでもですね、いま皆さん大体施主になられる方の年齢が四十代から五十代が多いのですかね。そうしたときにいざというときにどうしたらいいのかわからないというのが実際なのです。

じゃあどうしようかということで、いまはインターネットですわね。それでとにかくお世話になるところを探します。そうするとそこでお葬儀をしていただくのはいいのですけれども、そういったところに来られるお坊さんが、誰が来られるのかということです。ここの明順寺のご住職が来てくださるとは限りません。業者さんはね、インターネットの業者さんというのは、それこそお坊さん便って聞かれたことないですか。お坊さん便。派遣僧侶が来られるのです。

本当に人が人として生きていく意味、親として子に伝えていかなくちゃいけないそれこそ人間として生まれた、人間と言える、本当に人と人との関係性において初めて人間は喜んで生きていけるのだ。だから自分の生き方がどれだけ逆に私が私がということで人を傷付けているかわからない。実はそこには孤独になり、空しい人生しか待っていないのだと。そうではないのだと。そういう人生こそが駄目なのだと。ここにおいて南無阿弥陀仏が伝えようとしているその意味を残されたご遺族に伝えてくださる、そういう住職さんに、やはり私はこの大事な大事なお葬儀というものをお勤めいただくべきだと、そういうふうに思っております。

実は人間の大事なお仕事ということがあって、できれば皆さんが元気なうちに、できたらお子様を連れてですね、一度お寺のご住職さんと自分のお葬儀のこととか、そして何を自分は子どもたちに伝えたいかとか、そういったことをお寺に来てね、ゆっくりとお話いただいたらどうかということを思うのです。

お墓というのも、これは正面に何々家と書いてあるお墓もございますが、正面に南無阿弥陀仏と書いてありますね。それは亡くなった方が、そのお墓のところまでに子どもたちを招き寄せて、そしてこの南無阿弥陀仏の意味を尋ねていってくれという道しるべなのです。それは私たち人間にとって何が本当に大事なことなのかということを、考えてくれよ。自分の損得だけで生きていくようなそういう私たちでは結局あなたが苦しむのだよ。本当に求めているのは、あなたのいのちが求めているのは、本当に豊かで、そして人の悲しみがわかる。そういう社会を求めているのでしょう。そのことこそが本当に大事なことなのだよということを知らせていくための道しるべがお墓なのです。

そこに南無阿弥陀仏。そしてこの本堂にお参りされて、住職さんのお話をきちっと聞いていく中に、改めて自分が普段生きている自分の在り方、そのことをもう一回考え直してみようという、そういう大事な大事な機会に恵まれて、そのことを本当に私たちは相続していかなくちゃいけない。そういうことを練馬の方では語っているようなことでございます。

本当に大事な相続ということにおいて、本当に一番大事な相続はですね、私これから父親が亡くなると思っているのですね。去年八月に脳内出血で倒れました。こういう言葉があるのです。

死とは 死を賭して 周りの者を導く 人生最後の授業

これは藤原新也という写真家の方の言葉です。つまり私の父親の死とは、父親がその自分の死を賭けて、周りの者を導く、人生最後の授業であると。つまり私たちは本当に大事な人の死を見つめる。そのことを通して始めて自分の人生を考える。いずれ私もいのちを終えていく、限られたこのいのちをいかなるものとして生きていくのかという、本当に大事な問い返しをいただける機会をいただけるのが、実は身近な方の死なのです。その死を全部見ないようにしていく中において、人間が、本当に自分が生きるということを考えることは極めて難しい。

だからこそお葬儀には通夜があり、葬儀があり、亡き方と本当に向き合う。子どもたちを葬儀に連れてくる。昔だと当たり前です。子どもたちがご遺体の周りにいる。そして冷たくなったおじいちゃんを触りながら、ああおじいちゃん亡くなったのだ。自分もいつかいのち終えていく存在なのだなということを、子どもたちは感覚していく。死に触れて初めて人間は生きるということを真面目に考える。そういうことを大切な機会として、私たちは相続していく。そういうことをもう一つのこの宗活ということ。これを同時にやはり考えていくことが大事なのではないかなということを思います。

本当にご縁をいただきましてまことに有難うございます。またこういった終活のお話は、練馬の真宗会館でやっておりますし、また機会があればこの明順寺さんでもそういったことをさせていただいてもいいのではないかと思っておりまして、今日お話をさせていただきました。今日はお参りまことに有難うございます。失礼致します