「盂蘭盆会法要」つとまる

7月15日午前10時より明順寺「盂蘭盆会法要」が執り行われました。例年、猛暑のなか少しでも涼しい時間にと午前10時からの法要にしていますが、今年は小雨降る薄暗い天候で開式が早すぎるような印象さえ感じました。

皆さまがお寄せくださいました法名を尊前に掲げ、お焼香をいただき、正信偈を皆さまと共に唱和させていただきました。だんだんと皆さまの声が大きくなっていくことを思いますと、行事の度に慣れてきてくださっていることを思います。

今年は、日野隆文・東京宗務出張所長(現・京都教務所長)をお招きし「終活」について考えさせていただきました。練馬の「真宗会館」でも「人生を考える終活サポート講座」を開催しており、これからの人生で本当に大切なこと、いわば人生そのものを考えていく「宗活」についてお話をいただきました。もっと聞きたかったとの感想がよせられました。

詳細は、後日HPに追加掲載いたします。

翌日は、午後6時から「新盆合同法要」が執り行われました。副住職の法話のレジュメを掲載しておきます。

副住職からのお話

【阿弥陀の誓願・四十八願】
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。(真宗聖典204頁)
(阿弥陀様が法蔵菩薩という位だった時に、世自在王仏の所へ行って、色々なお浄土を見せてもらいました。五劫という長い時間をかけ、どんな人も救われる浄土を作りたいと思い、四十八の願をたてられました。そして、その願いがみんなに聞こえますようにと、重ねて誓われました。)

【第十一願 必至滅度(ひっしめつど)の願】
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚(じょうじゅ)に住し必ず滅度(めつど)に至らずんば、正覚を取らじ。
(たとえ私が仏になっても、人が、共に生きる友だちを得て、救われることがなければ、私は仏にはならない。)

【三世に渡る友を得る】
最近、母のように慕っていた女性住職が亡くなりました。女性が住職になることが認められてすぐの頃に住職になられたので、お寺という男性社会の中、大変な苦労をされてきた方です。その方に生前、「あんたはお寺の後を継ぐという不安を感じてきた人なんだから、これからはそういう思いをする人と一緒に生きていきなさい」と言われたことがあります。まだまだ先輩方に、おんぶに抱っこで甘え尽くしてまいりましたが、もう私の後ろには、不安を抱えている女性の僧侶が沢山いることを実感しました。

定聚に住するということは、苦しみを抱えながら精一杯生きてくださった先輩方、そして同じく悩む同世代、そしてこれから不安を抱えて歩む後輩たち。三世に渡ったともがらを持ち、共に歩んでいくということです。この仲間の存在は、生きる上で大きな力となり、心の支えになってくださいます。

これは女性住職の話ですが、もっと広く考えれば、人間誰もが親しい人を亡くすという、大きな悲しみを感じてきました。お葬式でお勤めをさせていただくと、なんとかしてその悲しみをなくしてあげたい、どうしたらいいのかと思うこともありましたが、悲しみをなくすことは難しいことなのだと実感してきました。むしろ、その悲しみを抱えながら大事に生きるからこそ、後に悲しみを感ずる人と共に生きられるのではないかと思います。

自分が辛かったときに言ってもらって嬉しかった言葉や、してもらって嬉しかったことを、これから先、悲しみを感ずる方に今度は皆さんがしてあげてほしいなと思います。
次回は9月のお彼岸です。この夏、大事にお過ごしください。お参りお待ちしております。