明順寺「秋季彼岸会法要」執行さる

去る9月23日午前11時より、明順寺「秋季彼岸会法要」が執行されました。酷暑も過ぎ、長い秋雨も終え、彼岸らしい季節になりました。

今年は、お中日を最後に5連休ということで、ご参詣の流れがどのようになるか、心配していましたが、連日大勢の方が墓参に見え、彼岸会法要も満堂の賑わいでした。

私は、全日本仏教会ならびに日本宗教連盟の行事が続き、すっかり彼岸の準備が出遅れてしまいましたが、有難いことに本堂のお荘厳は、副住職がすっかり整えてくれました。

副住職からのお話

まだまだ勉強中ではございますけれども、少しご法話をさせていただきたいと思います。

今日は親鸞聖人が明らかにしてくださった聞法生活についてお話をさせていただきます。親鸞聖人を初めとして真宗門徒は、仏様の教えを大切に聞き、いただいて、今を生きる私たちに相続してくださいました。その真宗門徒の生活には五つの正行があると言われております。「読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養」。その中で特に大切と言われる読誦、観察について今日はご紹介しようと思います。

親鸞聖人がご製作された『教行信証』によりますと、正行と言うは、専ら往生経の行に依って行ずるは、これを正行と名づく。何ものかこれや。一心に専らこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し、思想し、観察し、憶念する、と。真宗門徒の行というのは、お経やその他のお聖教を読んで、観察し、憶念するということです。

いただいた言葉が日常生活の中でふっと思い出される、これが憶念。そして自身の生き方が問われる。これが観察でございます。ただ本を読めばいい、ただ聞法会に出ればいいというわけではないと、勉強会で先生や先輩に叱られます。観察というのは、自身にかけられた呼びかけを受けて、自身の心と向き合うことであります。

一般的な観察(かんさつ)というのは、お花を観察するというように物事を外に見ますが、五正行での観察(かんざつ)は、そうではありません。あくまでも教えをもとに自分自身を観察いたします。しかしながら自分を観察するということがなかなか難しいのです。私どもは我執と言う、自我に対する執着を持っておりますので、自分中心にものを考えてしまうのです。自分の考えを正しいと思って、それを頼りにするのです。だから何か悩み事が起こると本当に苦悩するということをせず、すぐ解決しようとしたり、気を紛らわせたりするのです。

しかしそういった苦悩は決して無駄ではなく、むしろ教えに出遇うチャンスであります。それをきっかけとして自分の生き方が本当に照らされる。私どもの身に、回心(えしん)ということが起こるのです。回心というのは、自力(じりき)の心をひるがえして悔い改めること。でございます。これが苦悩からの解放です。

そこで、仏様に頭(こうべ)を垂れるということが起こります(礼拝)。しかし、1度そのようなことが起こったとしても我々はまた自分の考えで生きるものです。絶えず自分自身の生き方を問い、改めていくと。それが真宗門徒の聞法生活、教えをいただいていくという姿であると思います。

私ごとではございますけれども今年ようやく資格が取れまして、よくこんなことを聞かれるのですね。「副住職さん、修行はいつ終わるの?」。で、私こう答えるのです。「一生です」。その理由、今日のお話で伝わりましたでしょうか。私はお坊さんでありながら人間生活を送っている一真宗門徒でございます。この浄土真宗は、修行を重ねて偉いお坊さんになるという教団ではございません。いかに自身が自分勝手に生きているかが見えてくる、そういう怖~い教えでございます。しかしその自分自身が照らされたところに喜びがある。不思議な教えだなあと思います。

最後になりますけれども、この真宗の教えを次の世代に正しく伝えていくということが望まれます。この教えを相続してきたのはお寺のお坊さんだけではございません。むしろご門徒さんが大切に相続してきたものと私は思っております。どうかご尽力を賜りますことをお願い申し上げて、ご法話とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

お話をする副住職
お話をする副住職