明順寺「歎異抄講座」

第13章、第4段です。中津先生~第13章は、悪人の救いを明らかにする第3章と呼応していますが、「悪人」というのは、その反対側に善人がいるよ うな、人間の常識的なレヴェルの倫理的な批判で終わるような、いわゆる悪人ということではないのです。もしそうであれば、学問ができる人が素晴らしい、修 行ができる人が素晴らしいということになってくる。素晴らしい者と素晴らしくない者が選(え)り分けられて、善人を中心にした救いということになってしま います。

そうではなくて、如来の眼(まなこ)、仏さまの眼、絶対無限の眼に照らされて浮き彫りにな る、人間が相対有限(そうたいゆうげん)の存在であるという事実、その自覚が「悪人」ということなのです。清沢満之は、「宗教の目的は無限にあるが故に、 これに向(むか)うを善とし、これに背(そむ)くを悪とするなり」と言われています。そういう意味での「悪人」には、いわゆる善人も、犯罪者などと呼ばれ るような悪人も含まれています。そのどちらにしても、心の奥底では平和な共存を希求(けぐ)していながら、現実はそうなってはいないということがありま す。それは、人間の生きるということが、さまざまな縁(えん)に動かされる相対有限な凡夫の身をさらし、第13章に言われるように善悪は宿業によるという 事実があるからです。

人間は相対有限の存在であるがゆえに、不殺生(ふせっしょう)一つを完全に実行することがで きず、罪悪を犯さずしては生きられません。生きるためには他の命をいただいて、命を殺して生きねばならない。人間関係でいうならば、一人の力は無限ではな いから、いろいろな人に世話や心配を、ことによっては思いもかけぬ迷惑をかけねばならない。実際、そうしたことがあって今の私があるということは、私に とっての事実であります。

他方、やはり人間は、相対有限者同志の関係であるがゆえに、傷つけ傷つけられる、殺し殺され るということがあり、罪悪を被らずに生きることもできない。たとえば、善意で言ったつもりが、相手の心にダメージを与えたりすることや、言葉によって殺さ れるということすらあります。もちろん、実のこもった一言にどれほど心が開かれるかわからないのも事実です。また、人間は人を生むということがあるけれど も、生まれてくる側にとっては完全に受け身です。こんなに不条理なことはないでしょう。私も若いときは、生まれてこない方がよかった、頼んでもいないの に、どうして親は勝手に生んだりしたのだと、そう思ったこともあります。これもやはり、人間が相対有限だという意味で、善悪を人間の力で決められないとい うことでしょう。人間は相対的であるために、誰かが良かれと思ってしてくれたことが、自分には悪と映(うつ)るということが間々(まま)あります。もちろ ん、逆もまた然(しか)りでしょう。

こうした人間のさまは、生きるということの本質的な悲しみであります。人間はどのように生き ようと相対有限であるから、罪悪をなさずにも、罪悪を被らずにも生きられない。それは、絶対的な悲しみの事実であります。親鸞聖人もまた、そうした悲しみ を生きられたのでありましょう。親鸞聖人は、よき人・法然上人をとおして、本願に出遇(あ)い、念仏に出遇えたことは人生の最大の慶びでした。だが、吉水 の念仏教団が弾圧され、師とともに流罪に処せられた。真実に生きようとしたがゆえに、人の世の罪人とされてしまった。これには深く悲歎(ひたん)されたこ とでありましょう。それは同時に、世のすがたを見徹(みとお)す本願の真実に、たしかに出遇って行かれることでもありました。

親鸞聖人は、その法難をもご縁として受け容(い)れられました。聖人は流罪を通して、「うみ かわに、あみをひき、つりをして、世をわたるもの」や「野やまに、ししをかり、とりをと」るなどして、日々、いのちをつないで生きている田舎の人びとに出 遇われて、人間が「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもす」る宿業の身であることに深く頷(うなず)かれ、罪悪をおかさずには生きられない存在 を救い遂(と)げんと誓われた本願の教えに感動をもって生きて行かれたのであります。(部分要旨)

明順寺住職:齋藤明聖