明順寺「歎異抄講座」

第13章の第3段です。中津先生~「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」(『歎異抄』第13章より)。
これは親鸞聖人ご自身の語られた言葉ですが、私はこの言葉に、大変なリアリティをもって、人間の生活における宿業(しゅくごう)を感ずるのです。海の漁師 さん、山の猟師さん、田畑を作る人、商いをする人‥‥自分がそのどれであるかということは、いろいろなご縁による。けれども、そういう生活者の皆が「いの ちをつぐともがら」であるということ、その日その日を一生懸命に働いて生きているということにおいて、同じ宿業を背負うている。そして、そこにおける親鸞 の眼(まなこ)――親鸞聖人ご自身が、そうした生活者の中におられる。見下してはおられない。そういう生活者と共にある。
これを『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』の言葉でいえば、「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらな り」ということです。ここにはやはり、「われらなり」と言われている。「われら」は「彼ら」ではない。自分とは無関係な誰かではないのです。自分を含めた 皆が、同じ人間の営みを生きている、同じ宿業を抱えて生きている存在であるという実感が、そこにはある。
曽我量深先生は、「宿業共感の大地」という大切な言葉を遺(のこ)されましたけれども、親鸞聖人は確かに、「いのちをつぐともがら」として、生きるという ことの、苦しさやつらさ、悲しさや喜びを共感されている。ここには、如来の大悲を共にいただいていくという地平が開かれている。親鸞聖人は、そういう地平 に立たれているのです。
そしてその時、共感しあうわれらは本願に遇(あ)い、念仏に遇うて生きている。「能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうごん)」という言葉は、 「かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとし」と言われるように、その時われらが黄金(こがね)とならしめられるということを言うのである。もちろ んそれは、人間が物理的に黄金になるということではありません。そうではなくて、いのちをいただいて生きているその存在自身が、何物にも代えられない尊い 存在であるということが、まさに黄金のように輝いているのだということである。そこにおいて私たちは、人間に生まれたことが本当にかけがえのないことで あったと、気づかされるのです。(部分要旨)

明順寺住職:齋藤明聖