明順寺『歎異抄』講座

11章の4回目です。
中津先生~『歎異抄』には、唯円さまが親鸞さまに遇(あ)いがたくして遇うことができ、「先師口伝の真信」とありますように、善(よ)き人親鸞さまから親 しく、じかにお聞きすることができた真信が脈打っています。私にとりましては、曽我量深先生や金子大榮先生などのたくさんのお念仏に生きられた方(よき 人)に、つまり「先師口伝の真信」を相続して今の時代に生きておられる方に、はからずもお遇いすることができてお聞かせいただくことができたということは まことに深い恩恵であります。そういう恩恵をいただいてきているのですけれども、自身の生活はどうかというと、はずかしながら先生方の教えのうえに「あぐ ら」をかいて生活させていただいている、そういう自分を否定することができません。はずかしいことであり悲しむべきことでありますが、聞法の生活の中でそ ういうことを教えられますことは、私にとりましては誠にありがたいことです。ほんとうに活動なさっておられる方々がたくさんいらっしゃるのでありますが、 率直に申し上げますと、私自身はやはり先生方の恩恵のなかに安住していると言わざるをえない、そういうことを教えられるのであります。
『歎異抄』の「異義篇」をいただきますと、ほんとうによき人の教えに遇い、先師口伝の真信に遇いながらも、実際の生活では、自らのはからい、自力の執着と いうものが非常に深いものであることを教えられるのであります。(親鸞さまの教えは)あくまでも現実に生きている私自身に対して徹底的に教えてくださる、 そういう教えであります。そのことは特に「異義篇」をとおして、自分の中にある深い執着を、言葉を変えて言えば、理想化することができない、私はわかって いますよと言って自分をよしとすることはできない、そういう人間のありのままのすがたを教えられるのです。そのことは、どれほど月日を重ね、歳をとろうと も、日々教えられていく。それは生活が開かれていく、いままで気づかなかったことに出遇っていく。自分に遇い、人びとに出遇って世界が開かれていく。「異 義篇」をとおして、(親鸞さまは)人間のもっている深い執着の闇の底の底まで照らし出してくださっているのです。「異なることを歎く」ということにおいて 光に出遇う、教えに遇う。光に遇えばこそ、闇を感じ異義を異義と知らされる。異義が起こるということは悲しいことでありますが、異義をとおして深く出遇っ ていく、これが『歎異抄』の精神であると思います。
さきほど、戦争の話をしましたが、戦争は絶対にあってはならないことでありますけれども、起こってしまったという事実があります。その事実を本当に悲しみ 痛むというこころが、同時に平和を願うこころではないでしょうか。どれほど平和が、「和」が大事であるかということを身に沁(し)みて感ずることであると 思います。悲しみ痛むということは好んで求めるわけではありませんけれども、生きていることのなかには、日常生活の中でそういうことを感ぜずにはおれない ということがあると思います。同じ親子というご縁、夫婦というご縁をいただきながら、利用しあったり、邪魔者にしたり、ことによれば殺しあわなければなら ないという、そういうことを釈尊は人間の苦として「愛憎違順(あいぞういじゅん)」とか「怨憎会苦(おんぞうえく)」と説かれています。人はみんな理想の ように、友達だといって出あうといいのですが、なかなかそうはいきません。夫婦の出あいも、どんな苦労もいとわないと言っておきながら、思いどおりにいか ないと不満もでてきます。「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉にあるように、愛しいものと別れなければならないという苦しみ悲しみがあるのですが、そ のように愛しい人との別れには泣く人間が、同時にいやな人にあうと早く消えてくれないかと思ってしまう。人間はそういう「矛盾存在」だと思います。親鸞さ まの教えに出遇うと、私は矛盾存在だな、ということを教えられるのです。人さまに対しては要求するけれども、自分をいい子にするでしょ。(笑)矛盾存在だ ということを本当に教えてくださった方が、私にとっては親鸞聖人です。
真実の教えに出遇って親鸞聖人は、「身を粉にしても 骨をくだいても」報謝せずにはおれないと、それほど身命をかけて浄土真宗の教えをあらわしていかれ た。そうであるが故に、「虚仮(こけ)不実のわが身にて」という、「愛欲の広海に沈没し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑して」という、そうい う如来の真実に出遇えばこそ、人間の虚仮不実が知らされる。自分のなかに罪悪、名利、愛欲といったものをいっぱいかかえている。かかえているからだめなの ではなくして、かかえているその全体を照らしてくださる。その全体が光にあたる。そこに大事な意味があると思います。
愛欲、名利に…、これは親鸞聖人ご自身がご自分のことを告白しておられるわけですね。「悲しいかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して」 と。真のお法(みのり)に遇ってさとりすますことはできない、そういう自分であると。「悲しいかな」ということは、骨の髄まで如来の大悲が徹底している。 如来さまの大悲のまえには現実の生活の中で、なんの格好づけも身構(みがま)えも必要ない、あなたがあなたのまま聴聞してくださいと。ほんとうに人間が解 放される、そういう世界をあらわしていると思います。そういう念仏の教えが伝わっていくなかで異義異端が起こってくる。「すべて仏法にことをよせて、世間 の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや」(『歎異抄』第18章)と異義の出てくる根っ子を示されているのですが、これがなかなか見えないのですよ ね。
私は真宗の教えを心得ているのですよ、わかっているのですよ、そういうことでありますし、言いおどかして説伏し降伏させて自分の陣営に入れようとする。勝 他・名聞(みょうもん)・利養、人さまに勝ちたい、よく言われたい、先生と言われたい。そして自分に、利益があると。これがどこにあるかというと私のなか にあります、ということを教えられる。
いかがでしょうか?ないという方もいらっしゃるかもわかりませんが、私はないとは言えません。例えて言えば、高校の同窓会に行って、なつかしくうれしいの ですが、差も感ずるのですね、50年経つと。勝他・名聞・利養の思いがまったくないとは言えません。
はっきり申し上げます。私たちが聴聞して信心を教わるということは、「ああ自分のなかにありますね」ということを、はっきり教えられることではないでしょ うか。私にはありませんというと嘘になりませんか?どうでしょうか。私はそこが親鸞さまという方のほんとうにすごいとこだと思うのです。「浄土真宗に帰す れども 真実の心(しん)はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄(しょうじょう)の心もさらになし」(『正像末和讃』愚禿悲歎述懐)と、こうおっしゃ た。
これは劣等感でも悲観でもありません。如来の大悲、真実のはたらきがこの身に徹底した、末とおってきた、骨の髄まで染(し)みてくるような、そういうはた らきに遇うとき「虚仮不実のわが身」ということがほんとうに教えられるのです。そこにいよいよ、如来大悲の真実に帰して生きていくという意欲がわいてきま す。それは、「世間の欲心」と教えられることによって、「世間の欲心」にふりまわされないということです。それが大事なのではないでしょうか。だいたいは 「世間の欲心」だと気がつかないのです。自分がいいことをしているのだと、人さまにはない良いことをしているのだと。それが実は「世間の欲心」だったとす ると、そこには、慚愧(ざんき)があり、懺悔(さんげ)がおこる。阿弥陀の大悲の光に照らされれば、自分の我執の闇が知らされる。「異なることを歎く」と いうことの底にはたらいているものは如来の大悲であり、大いなる悲しみである、そのようにいただくことができると思います。(趣意)

明順寺住職:齋藤明聖