東日本大震災の直後、近隣の若い副住職さんが、何かしなければという気持ちに駆られてご門徒さまに相談したところ「お寺はそこにあってくれればいいのですよ」と言われたというのです。おそらく若い副住職の、はやる気持ちを察しての言葉であったのでしょう。
人間社会にも同じようなことが言えますね。たとえ障害をもっていたとしても、高齢者であった としても、何かができなかったとしても、人間としての価値を疑われるなどということなく、誰もが一人の人間として「そこにいること」を認めあい、尊重しあ える。これが本当の社会なのではないでしょうか。
画家の描く絵は、若いときは薄く、年齢とともに濃くなり、晩年は透明になると言います。無理やりな自己主張がなくなって、空気のようなものになって本物になるということなのでしょう。
「お寺はそこにあってくれればいいのですよ」という言葉は、そういう意味で、ご門徒さまの本質をわきまえた、お寺との成熟した関係性をあらわすものなのかも知れませんね。
明順寺住職:齋藤明聖
一人ひとりが今、そこに生きているという、ただそれだけのことが祝福されるような社会を想像してみてください。
(ニコラス・ファラクラス)