これは広瀬杲先生のことばです。
なるほど、行きづまっているのは、わが身のようですが、そうではありませんね。わが身は休むことなく、急ぎこともなくただ遇縁の事実を歩んでいくだけです。
行きづまるのは、心のほうですね。なぜ行きづまるかといえば、私の思いが身の事実から離れているからです。
救いとは、行きづまった私の思いから私自身が開放されて、行きづまることなく一歩一歩歩いていく。心が身の事実に還っていくことなのではないでしょうか。
信心とは、わが身に行きづまりはないと気づかせていただくこと。信心をいただくということは、すなわちわが身をいただいていくことなのですね。
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明順寺住職:齋藤明聖