去る12月14日開催された明順寺「報恩講」で、橘出先生に法話をいただきました。
その一部を掲載しておきます。
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テーマ 南無阿弥陀仏の教えに生きている人に出遇ってください
講師 久唱寺住職 橘 出 先生
皆さん、こんにちは。私は、新潟県の燕市にございます久唱寺というお寺をお預かりしております、橘出と申します。明順寺様の報恩講のご縁に寄せていただきました。
浄土真宗を開いてくださった親鸞聖人は、私たちにお念仏の教えを伝えてくださいました。その御恩に報いる集いのことを報恩講といいます。
親鸞聖人は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という、そういう言葉を先生である法然上人からいただかれ、一生をかけて私たちに伝えてくださいました。阿弥陀様の呼び声、我が名を称えよと。私の名前を称えてください。お念仏申してください。こういわれるのが、阿弥陀様から私たちにかけられている願いですね。
そしてその願いにお応えして、私たちが南無阿弥陀仏とお念仏申し上げ、そして阿弥陀様のいらっしゃるお浄土という世界に私も生まれたい。そういうものとして生きて往きたいと思う。こういうことが、親鸞聖人から教えていただいた御恩といってもいいのではないでしょうか。その思いを改めて受け止めて、それに報いる、そういう集まりが報恩講という言葉の元々の意味といってよろしいかなと思います。
今日のテーマは「南無阿弥陀仏の教えに生きている人に出遇ってください」。これは私が21歳のときに、浄土真宗の教えを学ぶ学校の学院長が、私たちにかけてくださった言葉です。その教えをいただいて、ずっとそこを生きている人、こういう人に出遇って、私もお念仏申していきたいな、お念仏申すことが大切なのだなということを、その人の姿や生き様を通していただいていく。
「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」という言葉を皆さん耳にしたことがあると思います。これは親鸞聖人のお誕生850年と立教開宗800年の法要のテーマになった言葉です。
皆さんどうでしょうか。ご自分の年齢を考えたら、一年一年、確かに歩いてここまでやってきたと、そういう受け止めでしょうか。それともいや、気が付いたらこの歳になっていた。そういう方が多いのではないでしょうか。そんな私は一体なんのためにこうやって生まれてきたのか。
今年の前半に放送していました「あんぱん」がとても好きでですね。アンパンマンの作者のやなせたかしさんとそのお連れ合いのお話でしたが。その中の台詞で、「なんのために生まれて、なにをして生きるのか、それがわからないまま終わるなんて、そんなのはいやだ」と。お前は一体なんのために生まれてきたのだということが改めて問い返された、そういう気がいたしました。
その時に思い出した言葉がありまして。北陸の石川県のご出身でありました和田稠先生がこういうお話を紹介してくださいました。小学校入るか入らないかぐらいの孫からおじいちゃんに、あるとき質問があったそうです。「じいちゃん、人間なんのために生まれてきたんや」。そうしたら聞かれたおじいちゃんは、「ばかもん。お前そんなこともわからんのか。人間はな、南無阿弥陀仏申すために生まれてきたんや」と言ったそうです。
親鸞聖人がお念仏を申すようになったのは、直接的には法然上人との出遇いがあります。法然上人が念仏一つには決まったのは、法然上人が43歳のときに、善導大師の言葉に出遇ったという出来事があったのですね。善導大師が私たちにおっしゃった言葉は、「一心専念弥陀名号」。心を一つにして南無阿弥陀仏とお念仏申してください。そして、動いているときもじっとしているときも、寝ているときも起きているときも、お念仏申してください。そうしたならば、南無阿弥陀仏と私の名前を称えてくださった人を、阿弥陀様の国に摂め取って決して捨てることはいたしません。その私の国というのが、浄土という世界であります。
順彼仏願故(じゅんぴぶつがんこ)という言葉があります。それが、仏様の本願、願いだからなのです。私たちが何故お念仏を申してくださいと言われているかといえば、それが阿弥陀様から私たちにかけられている願いだからなのです。それが一番の大本なのです。その願いに私たちは頷いて、そしてそれにそうですねと、南無阿弥陀仏とお念仏申していくことだろうなと本当にこう思うわけです。 (一部抜粋)