明順寺「歎異抄講座」開講

2025年2月8日午後2時から明順寺「歎異抄講座」が開講されました。

講師は、新潟県久唱寺住職の橘出先生です。東京教区駐在教導を務めておられたころからのご縁で、このたびお引き受けくださいました。

当日は、新潟県はあいにくの豪雪で新幹線が遅れる中、ご到着くださいました。

お話は大変わかりやすく、私自身、久しぶりの聴聞の場でしたが、苦痛なくお聞きすることができました。

残念にも病欠のかたも数名おられましたが、6人でゆっくりと過ごさせていただきました。

第2回が4月12日午後2時から開催されます。皆さまのご参加をお待ち申し上げます。

以下に先生のレジュメを掲載しておきます。転載のおり、ルビが落ちているところがあります。申し訳ございません。

1.『歎異抄』とは

浄土真宗に関する書物の中で最も有名で、浄土真宗の宗派関係者以外の方にも広く読まれてきた書物である。

本書には著者の名が記されていない。そのため諸説があるが、本文中にその名が見られるを著者とする説が有力である。1288(正応元)年(親鸞聖人滅後27年)頃成るか。

親鸞聖人のの頃より、人々の間に、真実の信心と異なる誤った考えが生じていた。本書は、聖人から直接教えをうけた著者が、聖人がお亡くなりになった後、これらの誤った考えが生じたことをし、同じ念仏の道を歩む人のを除くためにしたものである。この書に述べられているのは、異端をするといった冷やかな批判ではなく、真実の信心を見失っていく人々への深い悲しみである。それは、著者自身によって付せられた「歎異抄」という題号からも明らかである。

まず巻頭に、撰述の意図を示した漢文の序があり、続く本文は、著者が直接親鸞聖人から聞いた法語(聖人のつねのおおせ)を収録した前半の十条(師訓十ヵ条)と、さまざまな誤った考えを挙げて著者自身の歎異を述べる後半の八条(異義八ヵ条)とに分れ、最後に、聖人の法語をしながら、あらためて悲歎のおもいを述べている。このうち第十条は、その後半に誤った考えの生じたことをく文があり、第十一条以下の序のをとっているとも見られる。

現存するものの中では、本願寺第八代 蓮如上人の書写本がもっとも古く、これにはの(承元元年・1207)のときの記録の文と蓮如上人の奥書がある。

 

2.各章の主題  〔寺川俊昭 テキスト67頁〕

〔高橋源一郎〕

第一章 誓願 アミダのお誓い

第二章 念仏  ジゴクこそわたしにふさわしい場所

第三章 往生  悪人だからゴクラクに行けるんだ

第四章 慈悲  ジヒってなんだ

第五章 回向  いくらネンブツをとなえても誰も救えない

第六章 同朋 ネンブツはアミダからの贈り物

第七章 無碍 ネンブツは自由だ

第八章 大行 ネンブツは「修行」でも「善行」でもない

第九章 歓喜 ぼくは告白した

第十章 無義 もしくは、ぼく自身のための序文

第十一章   アミダのお誓いの不思議な力

第十二章   信じてもいいし信じなくてもかまわない

第十三章   「人を千人殺してみろ」と「あの方」はいった

第十四章   みんなを救う、ひとりも捨てない

第十五章   アミダの「ホンガン」という「船」に乗り、ぼくらの「苦海」を渡り、

いつかジョウドの岸辺にたどり着く

第十六章   ほんとうの「回心(エシン)」は生涯にただいちど

第十七章   ジョウドのかたすみに転生(テンショウ)したって大丈夫

第十八章   寄進やお布施なんか必要ない

あとがき   アミダが救うのは「おれ」ひとり

 

曽我量深 → 『前後照応歎異抄』(近角常観 本郷・求道会館の地に居住)

序文⇔第十章、第一章⇔第十一章 ~ 第八章⇔第十八章、第九章⇔後序

 

(参考)『歎異抄』を愛読した著名人

西田幾多郎(哲学者)・司馬遼太郎(文学者)・遠藤 周作(文学者)・吉本 隆明(文学者)

高 史明(文学者)・今井 雅晴(筑波大学名誉教授)・高橋源一郎(作家)

マルティン・ハイデガー(ドイツの哲学者)

 

3.『歎異抄聴記』曽我量深

一 『歎異抄』の構造 「大切の証文」(前十ヵ条)をこの書(八ヵ条)に添えたと言われる。

A.異義八ヵ条(誓名別心計・専修賢善計) B.正意の安心は、二種深信

二 善悪の問題 (『歎異抄聴記』文庫版 78頁 第十三条)

「理想主義」(定散自力)→善悪は、人間の理性によって決定できると現代人は考えている。

善導→ そうではない。上等な善人も下等な悪人も、人間は等しく凡夫である。(九品唯凡)

 

4.和田 稠『歎異抄講義録』ア.法然の吉水教団における異義 イ.親鸞の関東教団における異義〔親鸞79~84歳時、建長の法難…1251(建長3)~1256(建長8)年〕ウ.唯円の歎異

 

5.私一人のため 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」

 

6.信じること vs 疑うこと

「吾等の真実浄土の歴史と云ふものは、所謂信順と疑謗の常恒不断の戦いの歴史であった。」 (曽我量深)

「己の真宗でたすかりますか?」(西田眞因)

以上