「いのちのふれあいゼミナール」講演録(前半部分)

真宗入門講座
いのちのふれあいゼミナール
日 時:2013年10月5日(土)14:00~
会 場:浄林寺
講 題:死ねない時代に、浄土の教えを生きる
講 師:真宗大谷派僧侶・産業カウンセラー 三橋尚伸さん

今日ここに、おいでの方、あまりお寺にご縁のない方もいらしておられるので、本堂で話を聞く機会がない方もいらっしゃると思います。こういう場所の持つ力というのもありますので、普通の公民館でお話を聞くのとは少し変わってくると思います。

死ぬに死ねない時代

今日は、私の普段の仕事上で、よく目にするお年寄り、病気になったときにどういう状況になっているか、というところからお話したいと思います。

たぶん昔は、生きたくても医療が進んでいなくて生きられない、死んでいくしかないという時代がずっと続いていたのだと思うのです。癌になったら、100パーセント死んでいくしかないと覚悟をする。だからこそ、病名も伝えられなかったような時代がちょっと前まであったのです。

ところが今は、有難いのかどうなのかここは微妙ですが、医療が進んで死なないで済むようになったのです。多くの方が、大変なケガをしても、大変な病気になっても、すぐに死ななくていい時代になったのです。

そしたら、別の問題が出てきてしまった。どれだけ過酷な状況にあっても、死なせてもらえない時代に今はなっているのです。生かされてしまうのです。

たとえば、大きな事故で外見を変えなければいけない、片足を切断しなければいけなとか、動けない、食べられない、話せないという状況になる、顔の癌とかになりますと、顔の半分くらいを取らなければ命を守れないのですよ。だけれども今は、命を守るためには取るのですね。口も顔の筋肉も取った状態で、生きていかなければならないのです。死なせてもらえないのです。

現実的に私は、多くの方から、こんな姿になってまでなぜ生きなければならないのって問われます。これが私の日常なのですよ。

こういう法衣を着て、病床に、あるいは老人病院とかに行きますので、お坊さんであるとみんなわかります。そうすると、ちょっと、ちょっとって呼ばれて、ベッドサイドに行きますね。お布団の横に行きます。そうすると、裾をつかまれて、なぜ私は生きなければいけないのですか、なぜ死んではいけないのですかって問われるのです。死ぬに死ねないのです。

で、ここで家族の想いと本人の想いが違っているのですよ。家族は、家族関係がいいケースですが、一日でも長く生きていてほしいと想うわけです。なにも話せなくてもいい、トイレに一人で行けなくてもいいのだから長く生きてと想うのだけれど、本人は違うのですね。こんな姿になってまで生きていたくない…。

多くの方が言うのには、自分が生きていることによって、お金が流れ出ていく。金食い虫。自分が生きていることは、みんなに迷惑をかけている。だから生きていちゃいけないのではないか。生きていたくない。こういうふうになるのです。

これが今の日本の現状です。歳をとるとそうなるし、大きな病気や大きなケガをすれば、そのような状態に一瞬でなるのです。日本の現状って非常にきびしいと思うのです。いい老後なんて妄想だと思います。お荷物なのですね。なにもできなくなった私は、人の荷物になって生きていかねばならない。体が動かなくなったら、自殺も自分でできないのですよ。

自分で自殺できないから、私のようなものが行くと、殺してって頼まれるわけです。でも、私はそのような勇気もないし人に死んでほしくないから、どれだけ苦しくても、しのいで生きていってほしいと、必ず死ねるときがくるからって、お話するしかないのです。こういう日常を私はおくっているのです。

本当に死ぬに死ねない時代に、いま生きているのだなって思うのです。なぜみんな、そんなに人のお荷物になることが苦しいのかと考えると、世間の価値観しかもっていないからなのです。世間の価値観で生きていたら、できない私はダメなのですよ。人の役に立てない私は価値がない。これが世間の価値観の生き方ですね。

世間の価値観と浄土の教え

でも幸いに、私や私たちは、浄土の教えを聞くこともできるし、出遇(あ)うこともできる、教えてもらうこともできるのです。世間の価値観じゃなくて、浄土の教えを聞いて、死ねない今の時代を生きて死んでいくってどういうことなのかということを、今日一緒に考えていただけたらと思っています。

自分がその身になりますからね。それは今晩かもわからないし、私もとっくに60歳を過ぎていますから、世間でいえばあと一年で老人。65歳から新聞には老人って書かれますから。もうあっという間なのです。今、片足を突っ込んでいる状態ですから、自分の問題として、あるいはすでに、そういう方を介護しているとか、身内に抱えている方は、一人称の問題としてご一緒に考えていただけたらと思います。

苦の内容を心理学と仏教から考える

WHO(世界保健機構)は、苦痛を四つに分けています。

①肉体的苦痛ですね。歳をとるとみんなこれが出てくるわけですね。歳をとらなくても事故を起こしたり生まれながらに肉体的苦痛がある方もいらっしゃいます。分かりやすい苦しみです。ここに今まで手を差しのべていたのは医療者。頑張ってくれたわけです。その結果、死ぬことも許されなくなってしまいましたが…。人の心臓を取ってまで、生きろと言われてしまっているのです。生きたい人に、人の心臓を取って、生きていいよと言っているのです。大問題です。

次に、②精神的苦痛。これも言ってみれば分かりやすいでしょう。手術しなければならないから怖いとか、家から出て入院しなければならないとか、あるいは本当は家に居たいのに施設に入れられてしまった。いろいろな問題、精神的な苦痛がありますね。これに対しても、医者がケアしたり、カウンセラーがケアしたりしていたわけです。

③社会的苦痛。これは少し分かりづらくなります。大きな病気したり、歳をとってくると、収入が減ったりして、社会的に強かった人、勝ち組だった人が弱者に変わっていくのです。こういうのを社会的苦痛というのです。日本で言ったら、主に経済を担っている一家の大黒柱であるご主人とかが、もし治らない状況の癌になったりした場合に、会社に知られると窓際にいったり、別の部署に替えられたりするので、本当の病名を内緒にしてまで会社にお勤めをしている人たちもいます。

あとは、精神的な病気がものすごく多いです。大きな会社であれば療養できます。ちゃんとその間、何10パーセントかの給料が出て、2年、3年、ゆっくり休むことができるのです。でも中小に勤めていたら、そのようなことはできません。鬱でどうにもならなくなっていても、あるいは統合失調症で幻覚が見えていても、働きに出るのです。食べていかなきゃならないから。これは辛いと思います。大量に薬飲みながら、眠気と闘いながら、給料をもらいに行くのですね。こういうことも、今、日本の現実であります。

ここら辺は、それこそ会社の上司が、病院だったらケースワーカーがケアしているところだと思います。もう少し安い病院に転院しましょうねとか、いろいろ考えてくれるのだと思います。

問題は、④霊的苦痛です。昔はなかったのです。前の三つで苦しみが全部語られていると思われていたのです。ところが、実はこれが一番根深くて、根源的な苦痛だったということに気がついて…。ここにケアが入らないと苦しいのです。

さっき日本の現状について言いましたけれども、多くのお年寄りや、末期で死んでいかなければならないのに死ぬまでは生きていかなければならない状態の人。この方たちが訴える内容は、全部ここに入ります。なぜ、私が癌で死ななければいけないのでしょうか。意味を問う苦痛です、これは。

アンサーとレスポンス

たとえば、病院に入院している患者さんだと、お医者さんに問うのです。先生、どうして私が癌になって死ななきゃならないのですか…って。お医者さまは、そんなこと言われてもなあって、ごまかしたり、あるいはつまらない答えをするのです。医学的な答え。答えねばならないと思っているので、アンサー(答え)をしてしまうのです。

人は歳をとると一つ一つの細胞が老化をして、そこに外の悪い環境とか、悪い物質が入って、とんでもない細胞の増え方をしていって解説するのです。これは、なぜ私が癌にならなければいけなかったのかの答えになっていないのです。だから患者さんは、問うても、問うても満足できない、よけい苦しくなってしまうのです。

また問われることが嫌になる医療従事者、医者とか看護師さんとかは、そういう問いをしてくる患者さんのそばに行くことを嫌がるのです。で、私が行くと、何号室の誰々さんのところに入ってください。ここを誰がケアするかというと、宗教者なのです。

家族も嫌がるのですよ、この問いを。たとえばお婆ちゃんが、もう私は死んだ方がいいのだよ、みんなの迷惑になるから、早く殺してくれって言われたら、家族はどういいます?そんなこと言わないで、みんな頑張っているんだから、一口でもいいから食べてって言うのですよ。苦しませているの。なんの答えにもなっていないの。

ここに、やれることって「応える」ことなのです。応じる。宗教者でも、家族でも、お友達でも、実はこの問いに対する答えはないのです。答えのない問いといわれているのです。

『観無量寿経』を見てもそうですし、キリスト教でもそう言われているのですね。やっぱり苦しくて、なぜ私がこんな体をもって生まれなければならないのか、ある障害者の方の問いなのですけれども、歩けない若い女の人が、イエスキリストに対して問うわけです。なぜ私はこういう体を持って生まれたのって。宗祖とか、仏さまとか、イエスキリストは、答えのない問いですから、直接的な答え、それはね…という答えは出さないのです。

だけど、応えるのです。そういう苦しみを生きている人に応じていくわけです。レスポンスなのです。卓球といっしょ。球が来たら、返すのです。受けとめて別の答えを出すのではなくて、来た球をそのまま打ち返すのです。これを私たちはやっているのです。

これがないと、この霊的な苦痛のケアができないのです。最初に言ったように、現状、ほとんどがこの問いになっています。なんで生きなきゃいけないの?たとえば、戻らないことが分かっているのに、たぶん2週間後に逝っちゃうのかなというレベルで、2週間もつかな、もたないかなというレベルで、なぜその2週間を生きなきゃならないのですか。

痛いのに、苦しいのに。ほとんど今は痛みのコントロールができますけれども、できないケースだってあるのです。じゃ、その2週間、生きている意味、苦しいと思いますよ。なぜ2週間、自分で前倒ししちゃいけないのって思います、自分がその身になったら。でも、そこを生きなければならないのです。今は。

姥捨山って…

最近、そういう現状を見ていて、私の中で練れてないのですが、ふと思ったのは、大昔、姥捨山ってあったわけですよね、ある地方で。これはね、いいか悪いかという問題じゃなくて、すごいシステムがあったのだなって思います。

両方の負担を軽減している。死にゆく人も、あるところで死ぬ決断ができるというか、死ぬ場所がわかるというか決められる。死にどきを決められるというか、その汚い姿を家族に見せなくて済む。家族も、親が弱って死にゆく姿を見ないで済む。だから動物の本来の死に方に近かったのだなって、別の問題はいろいろあるのでしょうが、私は最近よくそのことを思うのです。

実際に、寝たきりになってでも、死なずに生きていかなければならない人を見て、う~ん、あのシステムってすごかったのだろうと。もちろんそれはいけないということで、きっと社会が頑張ってくれたと思うのですね。社会保障とか福祉とかで、お歳召して体が不自由になったら、じゃあ、国がある程度面倒みましょうっていって、いっぱい施設を作っています。それでも足りない。三年入所するのに待ちなさいって言われたら、死んじゃいますよ。でしょう?だけど、間に合っていないわけです、現状は。

在宅介護の問題

これからは在宅看護が増えると思います。今の政府は、家族の面倒をみるのは家族だろうということで、今まで保証されていたものを減らそうとしています。あっというまですよ、これ。ほとんどが自宅でみなければならなくなります。すぐになると思います。また同じ問題が起こってくるでしょう。

今までは環境が整っている場所に、ある一定のところまで進んでしまった方を入れておけば安心してお預けできたのが、今度は苦しむ姿や日々のしもの世話から、愚痴から、家族が全部引き受けなければならない。家族の目の前ですべてが起こるようになるのです。

そういう時代はすぐでしょうね。ここをお互いに生きていかなくてはならない。家族もそれを見て生きる、ケアしながら生きる。死にゆく人も、自分の姿をさらして、もっと家族に迷惑をかけて、本当は迷惑じゃないのだけれども、本人にしてみたら迷惑かけてしまっているって思いながら、生きなければいけないのです。そのときまでは…。

迷惑をかけたくない…

日本の人って真面目なのかな、迷惑をかけないで死んでいきたいってみんな言うのです。そんなことって、ありえないのですよ。迷い、惑うのですね。これ、実は歳をとって病気になったから迷惑をかける存在になったと思っているけど、とんでもない間違いで、生まれた時から迷惑なのです。人の力を借りければ、生まれることもできないし、いま特にそうですね、昔は自分だけで生んでいたけど、いま本当に人の手を借りないと生れ出ることさえできなくなっているの。最初から迷惑なのですよ。迷惑な存在なのですよ。

だからなにも、一人でご飯を食べられなくなったから、もう迷惑な存在になっちゃった、生きていちゃいけないというのは間違いです。最初から迷惑な存在なのが私なのです。人の手を借りなきゃ、死ぬことさえできないのですよ。必ず人の手を借ります。どこか川で野垂れ死ねばいいわ、じゃないの。そのあと、人の手を借りるのですから。迷惑になるのです。そこはもう腹くくりましょう。

赤ちゃんで生まれたときなんか、私は迷惑な存在だから生きていちゃいけないなんて思わないのでしょ。お母さんの手を借りよう、ぎゃあぎゃあ泣いて、人が嫌がろうがうるさいと思われようが、泣いて要求しようって生きてきたのです。最初からそういうこと。だから自分が手を借りるような状況になったとしても、ことさら迷惑と思わないでください。始めから、そうだったのだなって、そういう事実を知らないってことが、煩悩なのです。

煩悩具足の凡夫

ここから仏教的な説明に入りますね。私が、すごく衝撃をうけた標語。よくお寺に行くと、玄関などに掲示してある言葉です。一か月ごとくらいに替わったりするのですが、練馬にある「真宗会館」に、ある言葉が貼ってありました。

「私の煩悩ではなく、私が煩悩であった」と書いてありました。どーんと、衝撃をうけました。みんな、自分の一部が煩悩、自分を煩わせたり、悩ませたり、苦しめるもの、それを煩悩というのだけれども、自分の一部がそうだったと普通は思っているのです。実はそうではなくて、私という存在そのものが煩悩だったっていう言葉です。誰の言葉って聞きました。一人も分かりませんでした。誰か知っている人がいたら、あとで教えてください。すごい言葉だと思います。

浄土の教えでは、煩悩はなにをしても無くならないというのが教えです。このことを知らない人のことを、凡夫という言葉で表します。ただの人。自分がどれだけ煩悩でできているのか、迷惑な存在なのか、迷い惑う存在なのかという事実を知らない人のことを凡夫というのです。

煩悩の内容

凡夫の私たちが、苦しい現状を生きなければならないわけですよね。煩悩には、なにがあるのか、普通は「三毒(さんどく)」。三つの煩悩と言われています。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と聞いたことがあると思うのです。普通は三つですが、今日は六個あげておきます。

①貪欲(とんよく) ②瞋恚(しんに) ③愚痴(ぐち) ④慢(まん) ⑤疑(実体化) ⑥悪見(あくけん)です。

なぜ①貪欲が一番先にきているかというと、欲が煩悩の根源にあるからです。すべては、ここから始まっています。自分の欲は小さいだのと思っていると思うのですが、私はそんなに欲深くないぞとか、だけど、凡夫の基本は貪欲でできています。

欲の内容を言うと「愛」なのですね。愛って世間ではいいことなのだけれど、仏教では最悪です。欲のもとですからね。愛を「渇愛(かつあい)」と言います。要するに足りない、求めている状態です。だから欲が出てくるのです。これでできているのが、私ですということです。

②「瞋恚」、これは怒りとか羨(うらや)む気持ちとか、そういうことが過度に出てくるというのですね。これは自分を実体化するというか、世間と比較して私はこうなのだ、理想はこうだ、こう見られたい、でも実際はそうはいかなくて、人より劣ってしまったりするわけです。そうすると、イライラして怒りが出てきて、なんであんな不真面目なやつが生きていて、真面目に生きてきた私が精神病を患わなくてはいけないのか、とか始まるわけです。みんな、これをやっています。

③愚痴ですね。愚痴というのは真実を知らないということですね。要するに凡夫性です。こういうのが私の事実、真実のあり方ですということを知らない愚かさのことです。これが愚痴です。

④慢です。これは、上の慢と下の慢があります。やはり、私たちは比較しますから。比較で生きています。自分だけの価値観ではなく、いつも誰かと、あるいは世間と比較して生きています。そうすると、勝ったら自らを上に立てて自慢する。劣っていた時は卑下する。これを卑下慢(ひげまん)というのです。慢がつくのですね。同じことだということです。
(前半30分・文責:齋藤明聖)

 

三橋尚伸先生
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