明順寺『歎異抄』講座

第11章の3回目です。
中津功先生~異義篇を学ばせていただいていますが『歎異抄』という名前が本当に大事です。現代、『歎異抄』はたくさんの人に読まれています。でも、ことに よれば「親鸞聖人語録」として受けとられていないでしょうか。確かに『歎異抄』の前半は師訓10か条で、親鸞聖人の言葉が私たちに強く響いてまいります。 親鸞聖人の尊い教えが生き生きと伝わってきます。それは間違いないのですけれども、筆者唯円が『歎異抄』と名づけられた、そこに大切な意味があると思いま す。
さきほど太平洋戦争で真宗大谷派教団も戦争に加担してきたことをお話しましたが、仏法の真実に照らすならば殺人はいかなる理由があっても罪悪であるという ことは明瞭ですが、圧倒的な力で支配され、またその流れの中に生きていくとき、人間の悲しい性(さが)といいますか、自己保存の本能がはたらくといいます か、飲み込まれて妥協してしまうということがあります。かえりみますと、親鸞聖人が法然上人に出遇(であ)われた吉水の念仏教団は弾圧され、死罪や流罪に 処せられた者が何人も出ました。親鸞聖人もその一人ですが、命をかけて真実の教えに生きるということは並大抵のことではないと知らされます。「歎異」の 「異(こと)なることを歎く」ということは、親鸞聖人の教えに出遇ってその教えをいただき、本人の自意識では喜んでいながら異義異端をとなえてしまうとい う問題です。教えの言葉が、現実の生活の中で、その人自身の功利的な心情や都合にあわせて受けとられるとき、異なるということになってきます。同じく聞く といっても、教えによって自身の現実の姿が如実に知らされるということと、教えを自分の都合のいいように利用するということがあります。自分の都合のいい ように受けとっていながら、そのことに気づかない。都合のいいように解釈してしまうということは、人間の中にある深層の、無意識の煩悩のはたらきであると いってもいいと思います。気がつかないうちに分かったことにしてしまう。そこに異なるということの根の深い問題があります。この異なることを異なっている と知らされることによって正信に立ち返る。真実の信心に立ち返る。ここに歎異の精神があり『歎異抄』をあらわされた願いがあります。
今年(2007年)をふりかえっての一字は「偽」でした。「偽」は、にせ、いつわりということですが、人間の作為で「人」の「為」にするとも読めます。人 さまの為ということもありますが、自分の為ということもあります。それが「偽」になる。そこにエゴイズムがはいってき、思想的なことであれば正当化がは いってくる。この事実に気づいて懺悔(さんげ)する、「異なることを歎く」という精神は現代において不可欠といってもいいほど大事なことだと思います。
異義篇が大事な意味をもっているということは、親しく尊い人として敬ってきた親鸞聖人の仰せひとつが、私たちの生活の中で聞いて頷(うなず)いているつも りになっているけれども、悲しいかな、生活が自他ともに開かれていくことにならない、という問題です。「教養仏教」という言葉がありますが、仏教を学ぶこ とは大事なことなのですが、それを自分の知識内容として自認してしまうと善人になってしまいます。これは本当の仏教の精神といえるでしょうか。『歎異抄』 の異義篇には、こういうことが問題とされ、みな共に真実の信心に目覚めて生きる道が喚(よ)びかけられているのです。(趣意)

明順寺住職:齋藤明聖