第20回:「家を出たのが仏法」

ご門徒のIさんが聞法会の感想をこういっていました。

「話がむずかしくてよく理解できなかったけれども、むずかしい話を聞けてよかった。先生が一生懸命お話しされていた」と。私はこれを聞いてある言葉を思い出しました。

「終わりを出発点とするのが他力、終わるところが始まるところである。礼拝(らいはい)も讃嘆(さんたん)も作願(さがん)も観察(かんざつ)も、みな如 来からの回向によると説かれたのである。今、皆さんが家を出て、ここに来て、話を聞いて悦ぶのが仏法と思っていられるかも知れないが、仏法は話ではない。 家を出たのが仏法である」(『自然の浄土』安田理深)

話を聞きに行こうと思って家を出たという事実のなかに、すでに仏道成就があったということです。

禅宗でも座禅している人は仏さまだ、仏さまがお仕事をされ ている姿だといういい方をします。

家を出て聞法会に行こうと思ったのは私の意思による決断ではなくて、私の上に仏道が名のりでた姿なのです。求道生活と は、どこかにある道を探し求めることではありません。聞法会に行こうという発心(ほっしん)に目覚め、その発心にかえることなのです。

明順寺住職:齋藤明聖