明順寺「彼岸会法要」執行

2013年9月23日午前11時より明順寺「彼岸会法要」が執行されました。三連休の最後にあたるお中日で、ご参詣がどれだけいらっしゃるか心配でしたが、満堂の皆さまとともに「正信偈」をお勤めすることができました。

法話では、明順寺「寺yoga」にお越しいただいた村田由恵さんの「食べるヨガ」のお話を紹介させていただきました。

「ひとはなぜ食べるのか?」
お腹がすくから、たしかに。身体を維持するため、そうですね。生きていくためにはなくてはならない行為です。

では、もう一歩踏み込んで、世界には空気だけ吸って身体を維持しているヨギも存在します。人間が生きていくのに必要なものは、太陽の光、空気、水、食物だそうです。

じゃ、なぜ、あえて食べるという行為が存在するのでしょうか?いろいろ考えられます。私は3つの視点で考えてみました。

まず、①自分との関係。
いま、ここ!!をもっとも体験できる行為だから。目で見て、香りをかぎ、歯でシャキシャキ噛み、舌でふれ、味わう・・・。人間に与えられた五感をこれほどまでに使って、感覚を思う存分満たしてくれることって食べること以上にあるだろうか???喜びの宝庫です。このことに気がついたら食べることを、おろそかにしたり、何か他のことをしながらなんて勿体ないと思うはずです。

②人との関係
私は、人に食べてもらうのが大好きです。美味しい感動を人に伝えたい、皆と分かち合いたいという思いなのです。

そして③神との関係
よく、「残さずに感謝して頂くのよ」って耳にします。一体誰に感謝するのでしょうか?もちろん、ご飯を作ってくれた人、農家のお百姓さん。動物を私たちの代わりに殺してくれた人、申し訳ないけど。その方々に感謝するのは当然ですね。

でも、感謝の対象はあくまでも、そのいのちを授けてくれている「いのちの源」ではないでしょうか。私たちは、そのいのちはすべて繫がっていて、その大きないのちの営みの中に生かされている。そして、自分はその一部分を受け持っている。これまた尊い、いのちの一つなのですね。

それは、この自然をコントロールしてくれている大いなる存在。つまり神様(浄土真宗では阿弥陀さまです。すべて神から与えられて、すべて自分の中にそして自然の中に備わっている。浄土真宗では、「お下がりをいただく」って言いますよね。このことに気づくために、食べるという行為が与えられているのです。

シンプルすぎて気付かなかった。なんで当たり前と思ってしまうのか。日々の生活、今から今日から自分でできること。それが「食べるヨガ」。

私たちは、愛と感謝でできている。なぜなら神の愛で、できたものを頂いているから。食べてみたら分かります。喜びに溢れた食べ物を食べると魂が喜ぶのがわかるのです。神の愛で与えられた材料を調理して、感謝して愛でお返しして頂く行為。すべては神の愛で作られているので、愛に満たされたものを頂くと喜びに満たされる。
これが「食べるヨガ」なのです。

『歎異抄』16条に「ただ、ひとたびの回心(えしん)」という言葉があります。回心とは、ひっくりかえること。生き方が決定することですが、これは、単に一回きりの回心ということではありません。過去の思い出になるということでもありません。

真宗との出遇いとは、決して過去化するものではなく、生活のなかで、問題のただなかで繰り返されていくものです。「ひとたび」とは、全人生を尽くしていく一回性ということです。

まさに食べるという行為は、生活の場で、いつも新しい感動や感謝の心を繰り返し与えてくれます。そこから始まり、そしてそこから相続されていくということなのですね。

明順寺住職:齋藤明聖(釋 明聖)

満堂の彼岸会法要
満堂の彼岸会法要