坂東報恩寺「定例法座」

先に亡くなられた坂東性純住職のご命日を期して開催されている法座です。同朋大学元学長の池田勇諦先生が講師をつとめられています。参加者約50名。

『歎異抄』第4章、人間の根本問題としての愛(慈悲)についてお話をいただきました。人間は人の間を生きるもの、関係を生きる存在だといわれます。その間柄が、いかに豊かで充実したものとなるのかという問題として捉えると、身近なこととして受けとめられるように思います。

精神分析などで有名なエーリッヒ・フロムは、自我意識で生きる人間のもつ自己中心的な「利己 愛」と区別して「成熟した愛」があるという。それは人間の生きる姿勢、他者を見る眼の問題であり、それにはまずどんな状況におかれていたとしても自己を本 当に愛することができる「自己愛」を確立することであり、そこで初めて他を愛することができるのだという。

「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」、慈悲は一つだが、立場が二つある。人間を立場とする自己中心的な愛のあり方と、仏を立場とする愛である。

なるほど、自分が自分を立場としてどれほど愛を尽くそうとしても、自分の愛には限界があり、エゴイズムを超えることはできません。そういう無限の愛を夢見る夢から覚めたとき、大きな愛(仏の慈悲)のなかに、限りある無常の愛を尽くしていくことができるのでしょう。

精いっぱいの、できる限りの、自分の分において愛を尽くすことができる。愛の行為が、結果をともなう手段ではなく、目的になる。あわれみ、悲しみ、はぐくむことを、させていただくことが私の幸せになる、と池田先生はいわれます。

明順寺住職:齋藤明聖