坂東報恩寺「定例法座」

池田勇諦先生に『歎異抄』についてお話いただいています。『歎異抄』は現代(私)になにを訴えているか、というテーマでした。

『歎異抄』の系譜は『観無量寿経』→『選択本願念仏集』→『唯信鈔』であり、天親(てんじん)の「法の深心(じんしん)」の自己批判として、善導が「機の深心」を開いた。

法に触れて、仏に頭が下がった。これは、わが身に頭が下がったということであり、わが身をいただいていくことができる、わが身を受けとっていくことができるということであります。

この池田先生のお話から、「夜の寺子屋」の講師である新井先生から聞いたアシュリーさんの言葉を一瞬、思い出しました。彼は、一年に10歳、年をとる難病に侵され、17歳で亡くなっています。

「もう一度、自分に生まれたい。だって私が私であることが好きだから…」。

『歎異抄』は、現代の私たちに「機の深心」を訴えているのでしょう。現代は「機の深心」の欠落、人間中心主義の傲慢(ごうまん)さの時代といえるのではないでしょうか。

明順寺住職:齋藤明聖