明順寺「歎異抄講座」

第13章第1段の2回目です。中津先生~私たちが悪いことをしないのは、自分の心が良くて悪いことをしないのだと思い込んでいますけれども、親鸞聖人は、 「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と言われます。これもまた事実ですね。
たとえば、例が適当ではありませんが、旅客機が不慮の事故で墜落すれば大勢の人を殺してしまうことにもなりかねません。この聖人のおおせは、人間の生活の ありのままの姿を言い当てた言葉です。特別のことではありません。むしろ私たちが、そのことに気がついていないのではないでしょうか。
「われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて」。私たちは普段、自分の心の良いことを良いと思い、悪いことを悪いことと思っ て、もう一つ言葉を補えば、自分の意思で良いことをし、悪いことを止められると思っている。もし、本当にそうできるのならば、阿弥陀の本願はいらないので す。その人はそれで生きていけるのです。自分自身の意思と努力、行動によって善を行い、悪を止めて、できるものであればそれで生きていくことができるとい うことになりますけれども、わが身の現実はどうであるかということが大事です。
親鸞と唯円との問答にありますように、「たとえば、人を千人殺せば往生が決定するであろう」と言われても、条件が整わなければひと一人殺すことはできませ ん。また「この身の器量では、ひと一人も殺すことはできない」と思っていても、条件が整えば百人千人を殺すこともあるのだと。それが人間のゆるがすことの できない姿であるということがおしえられます。
「われらが、こころのよきをばよしとおもい…」。これは日常性の心ですね。私たちのわが身、わが心をたのんでいる心である。本願には罪悪のものを救うと 言っているけれども、悪を止めて善を行うことが救いになるのだというところには、仏法に触れながらも自分の善き心をたのんでいる。それは本願の不思議に助 けられているということを知らないということですね。自分の姿に目覚めるということは、本当に容易ではありません。
私たちの日常性の意識が破られ、善きことも悪しきことも、どんなささいなことも宿業でないものはない、と知らされることにおいて、善人意識に立つ私の人生 がひるがえされ、人間存在が自我意識を超えた宿業の深いうながしに生きる存在となることを知らされます。人間の思いよりもはるかに深く尊い人生が開かれた ということです。(部分要旨)

明順寺住職:齋藤明聖