『正信偈(しょうしんげ)』(現代語訳)その1

寿命限りない如来に帰命し、不可思議の光の御仏に帰依いたします。阿弥陀如来が法蔵菩薩でいられたとき、世自在王仏のところにおられて、十方諸仏の浄土の 起因、浄土の荘厳や人々の様相をいろいろ見てまわり、この上ないすぐれた願をたて、たぐいまれな大願をたてられました。法蔵菩薩は五劫という長い間かかっ て悪いところを捨て、よいところをとって大願を成就され阿弥陀仏となられました。さらに、重ねて、南無阿弥陀仏のお名号が十方に聞こえるようにとお誓いに なりました。阿弥陀如来は、広くあまねく、無量光・無辺光、無碍光・無対光・炎王光、清浄光・歓喜光・智慧光、不断光・難思光・無称光、日月の光に超えす ぐれた光を放って、限りなき国すべてを照らしておられます。一切の衆生は、このみ光をこうむっているのです。本願成就の名号は、わたくしたちが正しく救わ れる正しい行業です。これは第十八願、至心信楽の願が救いの正因です。

さとりを得る身と定まって、命終わり次第、大涅槃を開くことのできるのは、第十一の「必至滅度の願」が成就されたからなのです。釈尊がこの世にお出ましに なったわけは、ただ、阿弥陀如来の本願のいわれを説くためでした。五濁のどうしようもない世の中に生きる人は、如来の真実の言葉を信ずるがよい。よく、一 念、信心歓喜の心を起こせば煩悩を絶つことなく、涅槃の世界に入ることができます。

凡夫も聖者も五逆罪・謗法の者も自力のはからいを転じ、他力の本願に帰入すれば、流れの水が海に入って等しく一つの味となるようになるのと同様、罪過をか かえたままで阿弥陀如来のお慈悲をいただくことができるのです。阿弥陀如来の衆生を摂め取る心の光は、常に私たちを照らしてくださっています。しかしすで によく疑いの闇を破ってくださったのですが、むさぼり、愛着、いかり、にくしみの思いは雲霧のように、常に真実信心の天を覆いかくしています。

たとえば、日光が雲や霧に覆われても、その雲霧の下は明るくて闇のような暗さはないのと同様です。他力の信心をいただき、敬いの心をおこし、如来の大悲を 喜ぶ心になれば、すぐに横さまに悪業のさかんな五道を超え、浄土に生まれさせていただく身になるのです。一切の善人でも悪人でも、凡夫は、阿弥陀如来のご 本願をお聞きし信ずれば、釈尊はこれをたたえて、すぐれた智慧者だといわれます。またこの人を泥中の白蓮華と呼ばれます。

阿弥陀如来の本願にお誓いになった念仏は、邪見をいだき、おごりたかぶる悪い衆生にとっては信じ受持することは大変難しいことです。難しい中でもこれ以上に難しいことはありません。

インドの聖者、龍樹・天親、中国の曇鸞・道綽・善導、日本の源信・源空の高僧方が、釈尊がこの世にお出になった正意を明らかにし、阿弥陀如来の本願が凡夫 の根機に相応していることを明かしています。釈尊は楞伽山の会座において、大衆のために次のように予告されました。この後、五百年ほどして、南インドに龍 樹という菩薩が世に出て、世にはびこっている諸法についての偏見を打ち破ってくれるでしょう。
そして、この上ない大乗無上の法をのべ伝え、必ず仏になることを身をもって証明して浄土に往生するであろうとのべられました。(この予言のとおり)龍樹菩 薩が現れて陸路を徒歩でいくような自力の教えの難行を示し、誰でもが行ける阿弥陀如来の本願の船で浄土に行くことのすばらしさを伝えられました。阿弥陀仏 の本願を心にいただけば、自然に、即座に他力のおはたらきによって、必ず浄土に生まれるということが定まるのです。

このようなことであるから、常に阿弥陀如来の御名を称え、私たちのためにおたていただいたご本願のご恩を思い、それに報ずべきであるといわれました。天親 菩薩は『浄土論』を著してお説きになりました。私は専ら、無碍光如来に帰依いたしますと表白されました。菩薩は、『無量寿経』にもとづいて真実の仏意を表 して、凡夫の救われる、横ざまに悪趣を超えてさとりに至るという阿弥陀如来の威大なるご本願を明示されました。

そして広大なる阿弥陀如来のご本願のはたらきによって、私ども衆生を救うために、その救われる道は如来に帰命する一心であることを明らかにしてくださいま した。この阿弥陀如来のご本願の海に入れば、この世にあって必ず浄土の聖者方の集う大会衆の数に入ることができ、やがて蓮華蔵世界とも言われる浄土に行っ たなら、そこでたちまち真如のさとりを開くことができる。
(さらに)迷いの世界にもどって不思議の力を表し、煩悩にくるい生死に悩む世界にあって林や園に遊ぶがごとく自在に衆生を教化し救うことになるとのべられました。

本師曇鸞大師は、梁の天子武帝が常に菩薩のおられるところに向かって、菩薩として拝まれていました。大師は先に菩提流支三蔵に会って『観無量寿経』を授け られたので、修めようとしていた長寿の経『衆?義』を焼きすてて極楽往生の教えに入られました。

かくして曇鸞大師は天親菩薩の『浄土論』の註釈書、『浄土論註』を著し、阿弥陀仏の浄土に生まれる因も果も、これはみな、如来の誓願力によるものと明らか にされました。大師の教えでは、往相回向も還相回向も皆これ他力の回向で、他力の本願を信ずる信心のみが、浄土へ往生する正因であると明らかに示され、惑 い、罪にけがれた凡夫でも、一たび阿弥陀如来への信心をおこせば、生死そのものの中に涅槃が感得され、そして浄土にいったときは必ず、罪多い衆生も皆あま ねく済度できるとのべられました。

道綽禅師は聖道門の教えはさとり難いと見定められ、ただ浄土の教えのみが生死を超える境地に入れることを明らかにされました。そしてよろずの善を修する自 力の勤修をおとしめ、他力によって円かにそなえられた名号一つを称えよとすすめられました。淳心・一心・相続心とその反対の三信の訓誨をねんごろに教え、 さらに法がおとろえ滅びる時代になっても、少しも変わることなく大悲をもって私たちを救ってくださることを示され、私たちは、生涯悪をつくっていても、阿 弥陀如来のご本願にあうことができれば、安養の世界に生まれて妙果をさとると教えてくださいました。

中国の善導大師こそは、浄土門内外の諸師にあって、釈尊出世の正意を明らかにされました。定善や散善を修める自力の人と、五逆十悪の凡夫をあわれんで、如 来の光明、名号のおいわれを明らかにされました。また、本願のおいわれを信じ、大智慧海にとけこめば、如来は念仏の行者をして、正しく回向の金剛堅固な信 心を受けしめ、もし喜びの一念が本願のおいわれに相応するとき、『観無量寿経』の韋提希夫人と同じように三忍をえて、浄土に至って法性のさとりを開くとの べられました。

源信和尚は広く一代仏教の門戸を開き、ご自分では他力の教えに信順し、世の人々にもその教えをおすすめになりました。自力・他力の信心の浅いと深いとに分 けられ、純他力の人は報土、それ以外の人は化土と、はっきりと教えられました。極悪人よ、ただ阿弥陀如来を信じてその名をお称えなさい。称うることで、私 たちは、如来の摂取の光の中にありながら、煩悩の雲はわたくしたちの目をさえぎって如来の光をみることはできないけれども、如来の大悲の光は見捨てること なく私たちを照らしてくださっているとおっしゃいました。

本師源空(法然)聖人は、仏教の本意を明らかにして、善悪の凡夫、すべての人をあわれんで、真宗の教えを日本国におこし、阿弥陀如来のご本願を、この悪世 に広められました。衆生が果てしない迷いの世界にとどまるのは、ひとえに本願を疑う心の仕業であります。

すみやかに静かなるさとりの世界に入るには、ただ信心一つであるとおっしゃいました。このように、経典の主旨を弘められる聖者や宗師方は、限りなく続く極 悪の人びとに救いの道をお示し下さっています。出家・在家を問わず、共に心を同じくして、ただこの高僧方の教説を信じましょう。

※上記の現代語訳は『(傍訳)教行信証全書』(池田勇諦・神戸和磨・渡邉晃純監修 四季社)によることをお断りしておきます。