白骨の御文(はっこつのおふみ)

この御文は本願寺八代蓮如上人が25歳の若さで亡くなった愛娘・見玉尼との別れの悲しみの中で記されたと伝えられています。
蓮如上人はこの悲しみを決して涙だけで終わらせてはならないとの思いでこの御文を書いたのではないでしょうか。
亡き人がその身をとおして伝えてくださった死という事実を、我がこととして大切に受けとめさせていただきたいと思います。

「白骨の御文」(現代語訳)
人の世のはかないようすをよくよく考えてみますと、この世の移り変わりは無常であり、まぼろしのような一生です。いまだかつて1万年も生きた人がいるなど と聞いたことはありません。一生はすぐに過ぎてしまいます。今まで、だれが百年の命を保つことができたでしょうか。

私が先か、人が先か、今日かもしれませんし、明日かもしれません。人の命は草木の葉先の露や根元にかかっている雫のように遅速の違いはあってもいずれは落 ちてなくなります。朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまう身なのです。無常の風が吹けば、二つの眼は閉じ、息絶えて、元気だった顔も美し さを失ってからでは、家族が集まって嘆き悲しんでも、どうすることもできません。

いつまでもそのままにしておけないので、野辺におくり、荼毘にふして煙となってしまえば、ただ白骨だけが残るのです。その悲しみは言葉にいい尽くせるものではありません。

人の世のはかなさは、老若にかかわらないことですから、だれもみな後世の浄土往生というもっとも大事なことを心にとどめ、阿弥陀如来にすべてをまかせ、お念仏しなければなりません。

※現代語訳は『葬儀のしおり』(浄土真宗本願寺派東京教区多摩組清風会)に加筆させていただいたものです。

明順寺住職:齋藤明聖