『正信偈(しょうしんげ)』(現代語訳)その2

永遠の仏(みほとけ)よ、私はあなたの呼び声に目覚め、量りしれない寿(いのち)に立ち帰り、思いはかれない光に敬いを捧げます。

法蔵菩薩、それは昔、国と王位を捨てて道を求めておられたころの、あなたの名。

あなたは、世自在王仏という師におつかえし、仏たちの世界の成りたちと、国と人とのあり様を見きわめて、自ら浄(きよ)らかな国土を建てようという、すばらしい願いを打ち立て、あらゆるいのちあるものと共に生きようという、かつてない誓いを起されました。

遙かに長い時間をかけて、思いを深め、数多くの願いを選びとり、そのこころを自らの名のりにおさめ、どうか私の名と、そのいわれをよく聞きわけて下さいと願い、成就の誓いをこめて十方の世界に呼びかけました。

さまたげなく、並びなく、炎のように燃え、清らかさ、よろこび、深い智慧を輝かせ、絶えることなく思いや言葉では尽くせない光は、日月よりも明るく、世の隅々を照らし、あらゆるいのちが、その光の恵みにあずかるのです。

こうしてあなたは、願いの国、浄土の永遠の仏、阿弥陀仏と成られ、その名のりは南無阿弥陀仏という真実の言葉となり、その言葉は人が生きて往く方向を正しく定める仕事をしています。

あなたの真心は、いのちの根源に働きかけ、私にまことの心を起させます。

私が生きることの意味に目覚めてさとることができるとしたら、それは(必ずさとりに至らせる)という、あなたの願いが成就しているからなのです。

思えば、釈迦如来がこの世に出てくださったのは、ただひとえに海のように深く広いあなたの願いを説くためでありました。

濁った世界、悪い時代に生き、苦しみの海におぼれているいのちあるものは、仏のまことの言葉を信じるべきなのです。

信じ、喜び、愛する心がひとたび起こるとき、煩いや悩みを断たなくても仏のさとりを得ることができるのです。

凡人も、聖者も、逆らう人も、けなす人も、ひとたび心を回(ひるがえ)せば、みなひとしく救われるのです。

あたかも、さまざまな水がみんな大地に入って一つにとけあうようなものです。

仏の心は、すべてを摂(おさ)めとって捨てない光であり、常に私たちを照らし、護ってくださいます。

すでに迷いの闇は破られているのですが、むさぼり、とらわれ、いかり、憎しみの雲や霧が、常に仏の真実のこころの空をおおってしまいます。

それでも、たとえば日光が雲や霧におおわれても、その下が明るくて闇にならないように、仏の真実のこころは、いつも澄みきっているのです。

まことの信を得て、いのちの真実を見て、敬い、大きなよろこびに満たされたならば、その時、迷いの悪道を願いの力で、横にすみやかにとび超えて断ちきるのです。

すべての善や悪にしばられている人びとが、仏の願いを聞き、信じるならば、仏は(ほんとうによくわかった者)と言われます。

この人を(分陀利華)と名づけるのです。それは、泥に咲いて濁りに染まらない白蓮華です。

永遠の仏の願いを信じ、忘れずに、名(みな)を称える念仏は、おごり、たかぶり、あなどる悪い人たちには、そのままの心ではとても信じられないことです。

信心をおこすことほど難しいことはありません。

インドなど、西のかなたの龍樹、天親という仏教思想家、中国の曇鸞、道綽、善導という名高い僧は、釈尊がこの世にお生まれになった意義を現わし、仏の誓いが、すべての人びとのおかれた現実にかなう救いであることを明らかにして下さいました。

釈迦如来は、楞伽山(りょうがせん)で説法されたとき、聴衆に向って予 告され、(南インドに龍樹という大いなる人が現れて、我なきあと、真理をおおう有と無の思想をことごとく打ち砕く。彼は、自分だけの救いではなく、いの ち、もろともを乗せて運ぶ、大きな乗り物のような、すばらしい救いの法を説き、みずから身と心によろこびを証して、いのち安らぐ、さとりの国に生まれる) と言われました。

龍樹菩薩は、さとりへの道は二つあると示して、陸路をたった一人で歩く苦しい難行よりも、みんなと共に船に乗って楽しく水上を渡る、行き易い道があることを示しました。それは、仏の願いを船にまかせて、悩みの海を渡り、さとりの岸に至ることなのです。

だから、仏の願いを忘れず、心に思い念じるならば、そのとき願いのはたらきで、おのずから、すぐに必ずさとりを約束され、退(しりぞ)かない身と定まる。

ただ、よく、つねに仏の名を称えて、大きな悲願の恩恵にこたえていくことが大切である。このように言われました。

天親菩薩は、仏の心を『浄土論』に著して説き、(私は、さまたげなき光の仏のいわれをよく聞きわけ信じて生きます)と表明されました。『永遠の寿(いのち)の経』によって真実をあらわし、迷いの道をすみやかにとび超える仏の願いを明らかにされました。

そして仏は、願いの力を広くめぐらし、さし向け、あらゆるものを救う仏のはたらきを、願いを、信じる一心にこめておられることを知らせています。

仏の恵みに満ちた、宝の海のような願いを信ずれば、必ず仏の国で、説法に会う聴衆の数に入るのです。

蓮華のような世界である仏の国に至りつけば、すぐに真実のさとりを身に 受けて、煩悩はげしい生活の中でも、いのちの感覚を失わず、生と死の不安におののく現実のなかに入っても、まるで林や園に遊ぶように楽しく、人と出会い、 呼びかけ、関わりつづけていけるのです。このように言われました。

曇鸞大師は、梁の時代の国王が、常に菩薩と敬い、礼拝(らいはい)していた方です。

三蔵法師の菩提流支(ぼだいるし)との出あいによって、永遠の寿(いのち)を説いた教えを授かり、長生不死の迷信を説く仙経を焼きすてて、仏の願いの国をよりどころにされました。

天親菩薩の『浄土論』を解き明かし、仏に報われた国土の成り立ちや、そこに生まれるいわれも、すべて願いにもとづくと述べました。

その国へ往くのも、その国から還るのも、自力ではなく、仏が願いの力を回(めぐ)らし、さし向けておられる他力によるのです。

真実に生きて往く方向が定まるその原因は、ただ、願いを信じる心にあるのです。

惑いの人が、信じる心を起したならば、生と死の迷いや不安は、そのまま、さとりとなり、人生は無意味ではなかったと気づかされるのです。

限りない光の世界を生きるものは、必ず、あらゆるいのちを輝かしていけるのです。このように言われました。

道綽は、仏教の歴史を深く学び、今や、聖者の道ではさとりえない、捨てるほかないと決断して、ただ仏の願いの国、浄土に生まれる道を通じて、さとりに入るべき門が開かれていると明かしました。

多くの善を積み、自力の行をつとめても無駄であり、むしろ願いの徳まどかな仏の名を、ただひたすらに称えよとすすめます。

また、いつも不信におちいる心のありさまと、真実の信のあり方を丁寧に教えさとし、たとえ仏教の滅ぶような時代になったとしても、仏の心は同じく悲しみ、導かれると知らせます。

一生の間、悪を造った者も、仏の誓いに出あえば、いのち安らぐ世界に至って、証(さとり)が開かれてきます。このように言われました。

善導よ、あなただけが『観経』の教えのなかに、仏の深い心を探りあて明らかにしました。

定(じょう)や散(さん)という修行や善にはげむ善人と、逆らい悪をなす悪人とを、等しく迷う人と哀しみ、仏の智慧の光に出あい、仏の名を聞き称えるならば、それが因縁となって、心をひるがえし、目覚めていく道があることを明らかにされたのです。

仏の願いの、海のように深い智慧によって、念仏の行に生きる者は、何も のにも壊されない金剛の心を正しく身に受け、その喜びの心が仏の心と一つになったとき、絶望のどん底で、釈尊に出あった人、韋提希と同じように喜びと、さ とりと、智慧を得て、永遠のいのちを生きる楽しみをさとるのです。このように言われました。

源信は、広く仏教を説き明かし、ひたすらに、すべての人びとにいのち安らぐ世界に帰れとすすめました。

そして、念仏を信じる心について、専ら一つに生きる深いこころと、あれこれ雑(まじ)える浅い心を明らかにし、心の深まりで、願いに報われたまことの浄土に立つか、疑いにおおわれた仮の国土に閉じこもるのか、行きつく世界が違うとただしています。

極めつけの悪人は、ただ仏の名を称えるがよい。

私もまた、願いの光の中に包んでいただいており、煩悩が眼(まなこ)をさえぎって、光を見ることができないが、それでも大悲の仏は、あくことなく常に私を照らしていてくださるのです。このように言われたのです。

私の善き師、源空は、仏教は民衆のためにあるのだということを明らかに示され、善人も悪人も、ふつうの人として願いをかけ、真実の教えをアジアの片端の島国のこの日本に開きおこされました。

こうして、仏によって選びぬかれた本願は、この差別と戦乱にあけくれる悪世に広められました。

人びとがいつまでも、生と死の中で、どうどうめぐりをして、迷いの家に 帰りついてしまうのは、きっと、仏の願いを疑っているからに違いない、すみやかに、その家を出て、ひそやかで静かな、さとりの世界に入るということは、必 ず信じる心によって、よく成しとげられるのです。このように言われました。

仏の教えを広めてこられた大いなる祖師たちは、濁りきった悪い人の世を救ってくださいました。仏道を行く僧も、教えを信じ歩む人も、今の時代を生きる者は、ともに、心をあわせて、ただひたすらに、この方々の教えを信ずべし。

スペース・サラナン編集『正信偈』(意訳・戸次公正)より
※漢字、仮名使い等、若干直させていただいていることをお断り申し上げます。