明順寺「歎異抄講座」

第12章の4回目の講義です。中津功先生~『歎異抄』は、師訓篇と異義編が前後照応していると言われ、第12章は、第2章に相応しています。それは、異義 異端の現実のなかで、まことの教えをいただいていくという大切な意味があると思います。第12章の「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(しょうぎょ う)は、本願を信じ、念仏をもうさば仏(ぶつ)になる」という言葉は、第2章の「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひ とのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり」という言葉と、ピタッと響きあうような言葉であります。
第12章を読んで、これも大事な言葉だと思うのですが、「われもひとも、生死(しょうじ)をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば」とあります が、「われもひとも」とあるように、これは単に私ひとりの問題ではないのです。皆ともに、生死の迷いを離れようということなのです。たとえて言えば、先ほ ど人生の生業(なりわい)の厳しさ、辛(つら)さを申し上げましたが、「こんな辛い人生、なんで生まれてきたんだろう、生まれてこなければよかった」とい う嘆きがあります。すべてが便利になっている今の時代においても、そういう悲鳴は多いのです。そういう悲鳴や、心の深いつぶやきが表現できて、言い合い、 聞き合いのできる場がどんなに大きな力になってくるかわからないということがあります。そういう人間の、現実の生活にある非常に深い縛(しば)り、繋縛 (けばく)ということは、大問題ですね。今の時代は本当に厳しいと思います。自分の職業ひとつが、希望する職業に就くということが困難な時代です。フリー ターの方とか、非正規社員とか、解雇とか、次から次へと転職するということになってきますと、そういう生活のなかで、生きているということを受け止めてい くということは、本当に難しい問題だと思います。私は、「われもひとも、生死をはなれんことこそ」ということは、あらゆる人間の、永遠の根本問題であると 思います。そういう根本問題に応じて、親鸞聖人は、第2章では「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と、念仏して弥陀に助けて いただきましょうと言われています。これは念仏に表現されたところの如来の本願、すなわち、すべての人々が何ものにも代えがたい尊い「いのち」をいただい て生まれてきたものであるということであります。職業の問題とか、ありとあらゆる人間の問題をつつんで、そこに生きておられるお一人おひとりは、大事な人 生を生きているのであります、ということに目覚めていく。たとえて言えば、夏の北京オリンピックのあとにパラリンピックがあり、障害をもった方々が奮戦し ておられるお姿があり、感銘を受けました。なかには仕事の関係とかで手を奪われたり、足を奪われたりして、真っ暗になった。そういう中から立ちあがられ た。大変なことだと思います。これはもう、両足を失うようなことになれば、生きてはいけないと絶望せざるを得ないような、しかし、そういう絶望をくぐっ て、「いのち」があることは生かされていると。残された「いのち」を、与えられた部分を本当に尽くして生きていく道があると。これは容易なことではありま せんが確かな事実です。私たちはどうしても、常識的な、希望的な、人間の都合を中心にした価値観に、これはもうどっぷりと、染みとおっていると思うのです が、そういう価値観にどっぷり浸(つ)かっている。私たちは、人間中心の、自我中心の、希望的なもの中心の願望に、深くふかく取り込まれているのです。
そういう現実にあればこそ、今、生きているではないかと気づくことが本当に大事です。前にも紹介させていただきました曽我量深先生の、「いのちのあるかぎ り、呼吸のあるかぎり人間には仕事があります。南無阿弥陀仏、念仏を称えることです」という言葉がありますが、私は、大変な言葉だと思います。やはり、 「いのち」をいただいて、たとえば寝たきりになったとしても、だれも寝たきりになりたいと思う人はいないでしょう。しかし、縁があれば寝たきりになるとい うことがあるのです。そしてまた、寝たきりのなかで、念仏して生きていかれた方々がいらっしゃる。そこには人間存在の、裸一貫のこの身が、生きているとい うことは、よくよく深い歩みがあり、つながりがあって存在しているのでありますと、そういうことを教えてくださるのが、真実の行である念仏であります。本 願のはたらきであります。そういう「生死をはなれんことこそ」というのは、人間の一番深い願いなのではないでしょうか。なかなか裸一貫の存在自体が、裸一 貫ということを思いますと、いかにいっぱい鎧(よろい)をかぶって、身につけて、自分をかためているかということが浮かび上がってくるのです。なかなか人 間は執着が強いですね。いっぱい鎧兜(よろいかぶと)をつけて構えております。身構えしておりますね。身構えする存在です。私自身も、尊敬する先生方にお 会いしますと、身構えている自分が知らされ、間にあわなくなるのです。有り難いですね。善き人に遇うということがどれほど大事なことであるかということが 教えられるのです。
第12章は息の長い文章でありますが、何度も読んでいますと、何とねんごろな、唯円大徳自身の人格をとおして表現された願いが、そくそくと響いてくる感じがいたします。(部分要旨)

明順寺住職:齋藤明聖