明順寺『歎異抄』講座

第12章の3回目です。
中津先生~「芥子(けし)の地も 捨身(しゃしん)の処(ところ)に あらざることなし」という言葉を親鸞聖人は『教行信証』の念仏をあらわされる「行の 巻」に引用されています。中国宋代の僧・元照(がんじょう)の言葉です。芥子の地というのは本当に小さな地ですね。それはどこかというと、ここなのです よ。私たちが住んでいる、自分自身が座っているこの地(場)なのです。無数の道を求めていかれた方々が、身を捨てて人生の生きる意味を問い、仏に成らんと して歩まれた。そういう道を求めて歩まれた人の、捨身のところでないところはないと言われるのです。もう何十年も前のことになりますが、曽我量深先生が、 私たちはどこに立っているかというと、仏さまのお頭(つむり)の上に立っていると話された言葉が忘れられません。その通りであると思います。
縁がなくて何の業績もない、極めて平凡なその日その日を一生懸命に生きている、煩(わずら)い悩み心配しながら生きている、そういう一人ひとりの生活に、 実は、その生活の場それ自体がはかりしれない道を求める人々が、身命を賭けて道を尋ねていかれたのである。そういう場に私たちは生かされているのでありま す。人間が生きているという事実は、はかりしれない人々の求道の、浄土の道を求めていかれた人たちの、身命を賭けて尋ねられた、そういう恩恵をこの身にい ただいているのである、ということが教えられます。
大切な念仏のお法(みのり)を、異義者は自分には念仏のことはわかっていると。特に第12条の異義では「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定(ふじょ う)のよしのこと」とありますが、異義をとなえる人は親鸞聖人の教えをいただいてそれなりにわかったと、こう思っている。そういう立場に立っている人で しょうね。その人が、素朴に念仏を称えて、念仏から教えられて喜んで生きていても、経釈を学ばないでいれば、「往生不定」である。あなたは往生できるかど うかわかりませんよ、こう言って脅(おど)かすわけですね。これは大変迫力があるわけです。現代の言葉で言えば、念仏生活を喜んでいるけれども教えを体系 的に学ばないと往生できるかどうかわかりませんよというような、言い方ですね。それに対して、唯円大徳は、決してそういうことではないと。論ずるに値しな い誤った主張であると言われて、「他力真実のむね(旨)を明かせるもろもろ聖教(しょうぎょう)は、本願を信じ念仏を申さば仏になる」と明言されます。
これはまさに親鸞聖人ご自身が、人間に生まれたことの深い悩みを抱え、人間はどう生きることができるのか、どうなることが本当の救い、目覚めであるのか。 それが単に自分一個の問題ではなくて、ありとあらゆる人々が目覚めていくことができる道は何なのか、という問いですね。そういう問いは、決して私たちと無 縁ではありません。私たちは、何のために人間に生まれてきたのか、どうなることが本当に生きるということであるのか。自分自身が、自分自身であることに、 かけがえのない意味をどうして見いだすことができるのか。自分自身の与えられた人生を本当に十分に燃焼して、生きて、人生を果たし遂(と)げていくことが できるのか。そういう問いですね。そういう問いは人間の歩みのなかで、永遠の問いです。決して止むことのない、絶えることのない問いであると思います。つ まり、往生の問題ですね。そういう問いであるということを、どこではっきりと知ることができるのか。それは私自身のなかにそういう深い願いが動いている。 脈々と生きている、ということではないでしょうか。人間に生まれて、空しく終わりたくない、ということであります。仏法に遇(あ)い、念仏の教えを聞くこ とは、人生の根本問題を教えられることです。
今の時代は本当に深刻な時代です。生きる意味を見いだせないで、孤独に陥(おちい)ったり、人をそしったり、殺人行為に走ったり、自分自身を殺したり、閉 塞性の深い、閉ざされた闇の中に、むざむざと生きているという現実があります。そういう人々があふれているのであります。そういう人間が抱えている問題 に、本当に一番深いところから応え呼びかけてくださる。そういう教えが、どのような生き様(さま)の人にも開かれた「本願を信じ念仏を申さば仏になる」と いう教えであります。厳しい時代であればこそ、人間存在そのものが呼び覚(さ)まされる教えに遇うよろこびは深いのです。(以下、省略)

明順寺住職:齋藤明聖