明順寺『歎異抄』講座

第11章、異義篇を学んでいます。 中津功先生~
人間の生活は深いものがあると思います。もし唯円さまのときに異義が起こらなかったら『歎異抄』は残ったでありましょうか。異義、異端が縁となって『歎異 抄』ができたのです。

『歎異抄』に「われもひとも」という言葉がありますが、われとは唯円自身です。異義をとなえる人に異なりがあるという悲しい現実があ ると同時に、自分自身の中にも異なりがあるといわれるのです。これがすごいところです。

教えを聞いて悦んでいるけれども、親鸞さまのおこころのままに本当 にいただいているだろうかと、親鸞さまの眼をいつも感じているのです。光がさすと影がわかります。真実の信心に触れればこそ、われも人もそらごとばかり いっていたと。光に遇って異なっていたと気がつくのです。『歎異抄』は光に出遇った言葉なのです。

いささか聴聞してわかったということになりますと私はこ れでいいのだというところにあぐらをかいてしまいます。仏教ではそれを辺地(へんじ)といいます。人間の精神生活をあらわすのに仏法はここまで表現してく ださっているのです。

信心のことを金剛心といいます。砕かれることのない変わることのないダイヤモンドのような信心のことですが、それは人間の煩悩が頑固 で岩のように固く、どうにもこうにもならないものをかかえていることをあらわしているのです。それはどこの誰ですかというと、この私(中津)です。迷いの 頑固さはなかなか消えないものです。聞かないものです。聞こうとしないものですね…。(趣意)

明順寺住職:齋藤明聖