いのちのふれあいゼミナール

東京2組台東ブロック主催。参加者約50名。

長岡市西照寺住職・北原了義先生をおむかえして「いのちのふれあいを求めて~いのちは理知・理性(分別)を超えている」と題する法話をいただきました。

ソ クラテスの「汝自身を知れ」という言葉は、自分が一歩外に立って自分を対象化して見るのではなく自分自体を知ることであります。それは人間の眼が眼自体を 見ることができないように、あるいは人間が自分の影を追いかけても踏めないように難しいことです。

そのことを仏教は「無明」というのです。人間存在の根本 にあるこの根本無明を自覚することなしには、他者も自己も世界も正しく知ることはできません。私自身が「無明」であるということを照らし出してくれるのが アミダの「光」です。「光」に出遇ってはじめて私たちは感動をもってほんとうの「いのち」にふれあうことができるのです。

仏教は理性を分別と呼んでいます。よく人生が行き詰まったといいますが、人生は行き詰まっていません。行き詰まったのは分別です。自分の考えに行き詰まっ ているのですよと現代社会に申しておきたいと思います。(取意)

明順寺住職:齋藤明聖