ひび割れた壁に咲く花よ、私はお前を割れ目から摘み取る。私はお前をこのように根ごと手にとる。小さな花よ、もしも私に理解できたら、お前が何であるのか、根ばかりでなく、お前のすべてを。その時私は、神が何か、人間が何かを知るだろう(19世紀の詩人テニスン)
花を手に摘みとって、ばらばらにして理解しようとする。花の秘密がわかったら神もわかるだろうし、人間もわかるだろう…と。でも花のことはわかったとしても、そのとき花はいのちを失ってしまいます。
芭蕉は、こううたっています。「よく見れば、なずな花咲く、垣根かな」。芭蕉は花を見たけれ ども、摘み取ろうとはしなかった。ただ、よく見ただけだと。なずなは、花としてはほとんど無視されるような花ですが、よく見れば一つひとつ精一杯のいのち を咲かせているではないか。「よく見る」とは、どんどん花のなかに入っていく。花を自分のところにもってくるのではなく、自分が花のなかに入っていく。花 と一つになって生きる。そこにテニスンと芭蕉との決定的な違いがありますね。
テニスンの見方というのは、実は私たち現代人のものの見方です。人間の知識によって自然を変 えていくということによって起こる環境破壊。自分の知識によってことの価値を判断し色分けしていくのではなく、事実に頭が下がっていく。そういう心をもう 一度思い返さなければ、人間の文明社会は危ういものとなるのではないでしょうか。
明順寺住職:齋藤明聖
※『悪人正機』(宮城 顗)より抜粋