第19回:「“歎異抄”はいつも新鮮」

明順寺『歎異抄』講座の参加者であるKさんがこんな感想がいわれていました。

「いつも中津先生のお話が新鮮に感じられます」「一回休んでも安心してまた来ることができます」これってどういうことなのでしょうか?

答えは『歎異抄』は金太郎飴だからです。金太郎飴のどこを切っても金太郎がでてくるように『歎異抄』はいつ聞いてもどこから聞いても『歎異抄』なのです。いつでもどこからでも『歎異抄』の真髄を味わうことができるのです。

私たちは子どもの頃から積み上げていく教育をされ続けてきました。一回授業を休めばその分を取り戻さなくてはなりません。積み上げていけば知識も教養も高くなり立派な人間になれると教えられてきたのです。

でも『歎異抄』講座は違います。『歎異抄』に学ぶということは積み上げの知識を得ることではありません。曹洞宗の道元禅師は「仏法を習うとは自己を習うな り」といわれましたが、『歎異抄』に学ぶということは本当の自分に出遇っていくことなのです。ですからいつも驚きであり新鮮なのです。

明順寺住職:齋藤明聖