第7回「歎異抄講座」開催

6月13日、午後2時から明順寺「歎異抄講座」を開催しました。熱の入った講義に参加者も聞き入っていました。

記録として、レジュメを掲載しておきます。

明順寺さま 歎異抄講座 (第7回)レジュメ

2026年6月13日(土) 新潟 久唱寺

第3章 その2 「悪人とはだれか」 (『歎異抄にであう』無宗教からの扉 阿満利麿)

【ポイント】

1 なぜ悪人こそが救われるのか → 基準:ア.世間の善悪 イ.本願他力にもとづけば

2 「善人」は「自力のひと」

仏(目覚めた人)を目指して自分の力で修行することができる人、あるいはできると思っ ている人。(戒律を守り、瞑想ができ、智慧を磨くことができる修行者は善人。)

3 「悪人」は「仏になる手だてのない人」

煩悩に縛られた私たちは、どのような修行を実践しても、迷いの世界から離れて自由に成 ることができない。

4 「悪人」とは私のことである

なぜ私たちは、他者との摩擦に心を煩わすのか。それは私たちが日々、自己中心的に生きているから。

しかし、本当は他者のせいではない。自己に執着しすぎるから、さまざまな煩いが生じる。その自己中心、自己拡大の要求に生きている状態が、「煩悩」を具足しているということ。

5 善人というのも悪人というのもその人の自覚

何か他人をさして善人悪人というのではない。ここでいう善人悪人は、ふつうにいう善人悪人でないことを明らかにせねばならない。これはやはり機の深信、自分について自分がよいと思っている人が善人、自分は「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』第二章)、 往生の因も手がかりもないと自覚している人が悪人。                   (『歎異抄聴記』曽我量深175頁)

6 悪人でさえ浄土へ生まれるのなら、善人が生まれることは当然である

これは、一応、道理にかなった言い分のように思われますが、実は、阿弥陀の本願・他力の救いの精神には背くことなのです。」(本願他力の意趣)

7 「悪人」とは、自分を自覚した言葉 →の・の自覚・の感知(曽我)

機の深信は、の自覚を深信する

「自身は現にこれ罪悪の凡夫、より、常にし常にして、のあること

なし」は、宿業の自覚である。(曽我)

・機の深信ということによって、そこに法蔵菩薩を感知する。親さまが一切衆生の罪と悩みと、それをあなた一身にになって、そしてあらわれてくださったのが法蔵菩薩である。(曽我)

・私は機の深信法蔵菩薩を感覚する。もし法の深信というものが果上の阿弥陀如来を感覚するものであるならば、機の深信は法蔵菩薩を感覚する道である。(曽我)

・しかしあらゆる罪と悩みとをにないたまう如来の因位法蔵菩薩に身に親しく感得する。

法蔵菩薩は昔話ではない。自分の肉体にひしひしと法蔵菩薩を感覚する。これが宿業の自覚である。(曽我)

・自分の身体だからといって、勝手にでできない。公のものである。我が子どもだからといって、親が勝手にはできない。わが身も、公のものだと知るときに、本当に私のものとなる。

・この身体はこれ法蔵菩薩であり、法蔵菩薩を感ずるところの器である。(曽我)

8 善悪は自分では選べない

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」『歎異抄』第十三章

9 「宿業」とは何か

「過去の行為」私を私たらしめている過去の行為は、今の私だけではなく生まれる前のことも含まれる。

(例)「なぜこの人と出遇えたのか。」「なぜあの人と疎遠になってしまったのか。」

「なぜこんな病気に苦しまなければならないのか。」

11「業縁存在」であることを受け入れる

「弥陀のの願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞がためなりけり。

されば、そくばくのをもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願 のかたじけなさよ」とそうらいしことを、いままた案ずるに、

善導の、「自身はこれ現に罪悪の凡夫、よりこのかた、つねにしずみ、つねにして、のあることなき身としれ」          (散善義 『歎異抄』後序)

【法語】善人は顔が暗い 悪人は顔が明るい (曽我量深)

以上