「いのちのふれあいゼミナール」講演要旨(部分)

源隆寺

主催:東京2組B班
日時:2012年9月15日
場所:源隆寺
講題:「あなたはあなたであっていい」
講師:三橋尚伸氏(大谷派僧侶・産業カウンセラー)

私がテープ起しした部分の抜粋を掲載します。文責は私です。

本当の、真実の私は「理想の私」とは違いますから、「理想の私」にむけて頑張って努力するわけです。一所懸命自分を変えて、ほんとは努力無効なのですよ、そんなこと忘れて生きていますから努力は有効だと思って一所懸命、頑張って「理想の私」に向っていくわけです。「理想の私」になると評価が高まるのです。

たとえば学校でのことを考えてみてください。子どもが小学校にあがりました。100点満点のテストで50点しか取れませんでした。親はなんて言って育てるのですか?もっと頑張れ。完璧に100点が取れるように努力しなさいって頑張らせます。それ、いいことだと思っているから。世間では当然いいことですから。

たまたま努力が有効で、結果が出て100点が取れたとする。じゃあ、親の欲はそれで止まりますか?親も子も貪欲(とんよく)ですよ。根っこが貪欲です。努力して100点取れたのだったら、もっと頑張って他の教科も100点取りなさいって始まるのですよ。

欲は無くならないの。欲は次の欲を生むのです。子どもは親にほめてもらいたいから、応えようとするのです。親の欲望に応えようとして努力を続けます。その結果、運よく努力が実って全教科100点取れたとします。たまには、そういうこともあるかも知れません。じゃ、それで親の欲は止まるのでしょうか。親の欲は止まりません。子どもが応えたいという欲も止まりません。

全教科100点取れるのだったら、もっと努力したら学年で一番になれるじゃないの?もうちょっと努力してごらんなさい。ということは、ここまで努力して追いついたのですよ。追いついてひと休みしようと思ったら親の理想はもっと先に行っていて、またそこに向って努力します。ここにやっと追いついたら、さらにその欲望は先に行っています。ずーっと、それをやっているのです。

これ、別に親子の関係だけではありません。夫と妻の関係も、そういうことがあるかも知れません。お友だちどうしの関係でもあるかも知れません。これを、ずーとやってきた結果、生きることに疲れてしまったって始まるのです。

そういう子たちが、私のところにカウンセリングを受けに来るわけです。一番年齢の低い子、クライアント、相談者は4歳でした。親に死にたいということを言い出しました。最初、私は信じられませんでした。4歳ですよ。

何をやっているかというと、まだ小さいから自分で自分を殺すわけにはいかないの。で、ハサミで、女の子だったのですが、髪の毛を切り始めたのです。自傷行為ですよ。髪の毛をぎざぎざに切ってしまいました。それを見て親は本気になって考えだして、自分はどういう対応をしてきたのだろうと、カウンセリングを受けてきたのですね。

生きることに疲れてしまうのですね。これやっていると。だって世間の欲望、親の欲望、私の欲望、なくならないのですから。それでできているわけだから。で、生きていることに疲れてしまった、私は応えられなくなってしまった、努力が無効になってしまった、私は生きていてはいけないと。こうなるのです。

30歳前後が一番多いかと思いますが、クライアントさん。30年、これをやってきているということです。そこで初めて、努力が無効になって立ちどまるのです。ずーっと追いかけているのですよ。全員が全員、欲望がありますから。よく思われたい、愛されたい、認められたい、それには応えなければいけないからって生きているわけです。人の欲望に応えなければならないって生きているわけです。

こちら(理想の自分)の世間の価値観を親鸞聖人はなんて言っているのかというと、虚(こ)です。虚(むな)しいと。虚であり仮(け)である。虚仮(こけ)といっていますね。虚であり、仮であり、妄想(もうそう)の妄、真実ではないということです。妄であり、偽(ぎ)であり。人の為は「いつわり」という字になりますからね。怖い字ですよ。

子どものために言ってやっているのだって親は言いますよね。違います。自分の欲望を満たすためでしかないです。仮、迷、こういう字しか世間では出てきません。だけど、こっち(理想の自分)を私たちは真実だと思って生きてしまっています。

だから、ここの評価を気にするわけです。瞋恚(しんに)が働くわけだから、人の評価、世間の評価、知り合いの誰かの思惑、評判、ぜんぶ気になってしょうがないのです。だから安心できない。緊張を強いられているから生きることに疲れてしまう、ということになるのです。

日常だけだったら、皆、こうなってしまうのです。だから、こっち(現実の自分)が必要になるのです。ずーと私たちは、こっち(理想の自分)に向って日常を生きてきました。こっち(現実の自分)に一度向いてごらんなさい。本当のあなたってどういう人なの?っていう方向に向けるのが、仏教だったり、経典であったり、聞法会であったり、私的に言えば、カウンセリングの時間。これらは非日常の時間です。こっち(現実の自分)向きの非日常です。こっち(理想の自分)は日常ですね。あとは、物語とか神話も、こちら(現実の自分)に向けてくれる重要な役割をしてくれます。

ところが、私たちの仏教のお勉強の仕方は、こっち(理想の自分)向きなのです。聞法会に出ても、こっち向きに勉強するのです。不思議と。身につけよう、人のあまり知らないような小難しい仏教用語を身につけて、ちょっと口にして物知りみたいに思われたいとか、えーっ、普段あなた、そんなこと考えているの?とか、評価を受けたいとか、ちょっと物知り顔をしたいということがあるのでしょう。そっちの勉強になってしまう。自分の役に立てようとか、自分のなにの役に立てたい?冷静に考えていくと、すべて仏教の勉強でさえ、聞法でさえ、世間の方向の勉強になっている。それでは仏教は非日常にならないのですね。

これでは、ちゃんと方向を換えてくれる役目をなさなくなってしまう。それは、もったいないので、こちら(現実の自分)に向けるため、本当のあなたって誰ですか?ということを知るために聞法するのです。そういう非日常の場をくれるのが、こういう法話会であるとか、研修会とか、お勉強の会なのです。

お経は、みんなこちら(本当の自分)を向けてくれています。神話とか童話も。ちょっと不思議な話ばかりでしょ。知識では納得できない内容しか書いていない。お釈迦様がどこからか飛んできて、眉間(みけん)から光が出て、そこに何とか世界が現れてって話でしょ。

これ、知識だけでは理解できない。童話とか神話もぜんぶそうですよ。きつねがしゃべったり、何かが馬車になったり化けたりするわけだ。でも、そういう非日常だから、そこに出てくるいろんな動物やものに、自分を投影できるのです。何にでもなれるのです、私たちは。そういう非日常の物語の中では。お経の中の、ある時はお釈迦様の立場にも自分を投影できるし、ダメな凡夫に投影もできるし、どこか浄土を飛ぶ鳥、迦陵頻伽(かりょうびんが)にも投影することができます。

あらゆるものになれる。それを非日常によって初めて、そうか、普段、私ってこういう私だったのだなって気づくことができるのです。そういう勉強の仕方が必要になってきます。

明順寺住職:齋藤明聖

源隆寺