明順寺「歎異抄講座」

第14章の第1回目です。中津先生~第14章に、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の罪人が善知識の教えに遇(あ)い、念仏を申して往生することがで きるという言葉が出てきます。「十悪五逆の罪人」といっても他人事ではありません。心に残る言葉ですが、五逆謗法(ごぎゃくほうぼう)ということについ て、『御消息集(ごしょうそくしゅう)』第4通に、親鸞聖人の言葉が記されています。

「善知識(ぜんじしき)をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親 をそしるものをば、五逆のものともうすなり」。極めて具体的ですね。謗法というのは、善き人を疎(おろそ)かに思い、師を謗(そし)ることだと。(「おろ か」は、漢字で表わせば、疎か・愚かです)

いったい誰のことでしょうか。それは私です。そう言わざるをえません。清沢満之先生をはじめ とする、曽我量深先生、金子大榮先生など、尊い方々がおられて、教えをいただいてきている私ですが、ほんとうに疎(おろそ)かにしていないかというと、そ うとは言えません。やはり胡坐(あぐら)をかいているのです。師を謗(そし)ることになっているのです。

善(よ)き人々は、いのちを賭(か)けて説法をし、表現してくださっておられるのですけれど も、自分が胡坐をかいて疎(おろそ)かにしている。いのちを賭けて聞こうとしなければ、謗(そし)ると同じことですね。だから謗法ということが、どこかの 誰かのことではなくて、「あぁ、私のことであったのだな」と。親鸞聖人のお言葉をいただくと、そういうことに気づかせていただくのです。これが大事なこと ですね。

言葉を換(か)えて言えば、喚起(かんき)されるということです。呼び興(おこ)される、呼 び覚(さ)まされるのです。いつも私たちに、気づかせずにはおかず、呼び覚まさずにはおかない。そういう用(はたら)きですね。そこに法語という、仏法の 言葉、真実の言葉に遇う意味があります。言葉の解釈の問題ではないのです。

善知識を疎(おろそ)かに思い、師を謗(そし)るものは、謗法のものと申すなり。親を謗るも のをば、五逆のものと申すなり。親を謗るものは五逆のものであると。具体的ですね。親を、生まれてからこのかた、一度も謗らなかった方、なかにはおられる かも知れませんが、中津功はどうかと言われると、やはり謗ってきた。そういうものがあります。

いちばん親からすればきつかったのは、言葉で言っていませんが、「何で勝手に生んでくれたの か」というようなことを…。親が聞けば、いちばん辛(つら)いことではないでしょうか。やはり、それは親を謗るということではないでしょうか。謗ったとい う意識はなくても、生きている内容のなかに、心の、無意識の深いところに、謗るということがあると思います。

ですから、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)という問題は、単なる仏教語の話ではないのです。 人間の、先ほど申しました「実存」、汗をかき、涙を流し、そういう生(なま)の人間ですね。それはほかならない私自身の問題なのです。このような身に、す でに道が開かれている。そこに仏法が、私たちの生活になくてはならないという意味があるのです。(部分要旨)

明順寺住職:齋藤明聖