明順寺『歎異抄』講座

第13章の第1回目です。中津先生~この章の全体の見だしを「宿業と本願」としたいと思います。本願を離れて宿業という自覚はありません。宿業は、テキス トの註にもありますように、「過去になした行いを、重く背負って生きている存在」ということですが、人間の生活を深く悲しむ、大悲してやまない仏さま(如 来)のはたらきに触れて頷(うなづ)かれるということです。
『歎異抄』全体を貫いている課題は、私たちの人間生活にある生死の迷いを超えるということであります。それは、私たち一人ひとりの人間の、生活の根底にある問題であると言えます。
人間は、いのちの、長い歩みの歴史をうけて、生かされている存在です。量(はか)りしれない、いのちのつながりをいただいて生きています。一人だけれで も、一人ではない。深いいのちのつながりの中にある存在であります。
だから、人さまの世話には絶対ならないと思っていても、困り果てれば助けを求める、お世話になるという道が開かれているのです。そもそも人間は、人さま の、いのちあるもののお世話にならずして生きることができる存在であるのかということです。やはり、いのちのあるもののお世話になっている。気がつかなく ても生きもののいのちを殺して生きているということがあるのです。人間を殺してということもありますが、生きとし生けるもの、動物たち、植物たちを殺して 生きているということです。そこには人間の生活の、ありのままの生々しい姿があります。
『歎異抄』第13章の中で親鸞聖人は、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐとも がらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と言われ、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とおおせ になっています。
当時の人びとの生活が生き生きと映し出されており、この言葉からも、親鸞聖人が人びとと同じ地平に立っていることがわかります。決して見下(みくだ)して おりません。また見下すことができるようなことでもありません。『歎異抄』には、大事な言葉が表現されておりまして、人間の現実の生活、私たちの生活に深 く響いてまいります。
それはやはり、生死の迷いを離れる、それは超えるということでありますが、裸一貫の身が、ここに生きていくことができ、死んでいくことができる、ということです。
人間に生まれさせていただいたということは、本当に大きな深い意味があります。苦しみや悩み、煩(わずら)いのつきない身であればこそ、仏さまの目覚め、 真実の目覚めをこの身にいただくという、そういう大きな恩恵があり意味があったのだと。その真実の目覚めをいただく中で、宿業ということが頷かれてくるの です。
人間には自分の思いを超えて、悪を行い、善を行うということがあります。宿業ということを離れて人間の生活はないと言わなければなりません。
それは、私たちの生活が、いかに、あれを思い、これを思うことがありましても、人間の思うようにはならないという現実があるということです。そのことは、 現実をいただき、本願のお法(みのり)に深く出遇(あ)ってみるならば、人間の存在自身が、人間の歩みの中で、過去の善業・悪業というものが影響して、い ま私はこのようにあるべきしてあったという、人間であることの自覚を促しているのです。
宿業は、運命論や悲観的な諦(あきら)めではありません。人間の生活を受けとめて、いただいて存分に人事を尽くして生きていくことができるという、そういう大地に足の着いた生き方であります。
(部分要旨)

明順寺住職:齋藤明聖