明順寺『歎異抄』講座

第12章の第2回目です。
中津先生~ここでは、「信心と学問」あるいは「念仏と学問」という問題が提示されています。先回も申し上げましたように、異義者は異義者の顔をしていませ ん。自分こそは真っ当な、正しいことを言っていると、そういう表現になりますので、異義者の言葉にこちらのほうがお念仏をいただいて信心ということに眼 (まなこ)が開かれていないと迷わされるということがあります。「あなたは念仏を称えていても経釈を学ばない。そういうことであるならば念仏を称えていて も往生できるかどうかわかりませんよ」。そういう語りかけですから、これは本当に迫力があります。異義者の異端にあうことによって、私たちが信じていると 思っているその信心自身が問われるということです。異義者の言葉に惑わされるような信心であるならば、自分の信心はそういう信心であったということになる わけです。
『歎異抄』の序に「自見(じけん)の覚悟をもって、他力の宗旨(しゅうし)を乱ることなかれ」とありますが、異義者の異義ということは「自見の覚悟」とい うことです。浄土真宗の教えを聴きながら、自分に都合のいいように了解するということがあります。「自見」とは自分の考えです。自分の考えにあうように了 解していくことです。
蓮如上人(れんにょしょうにん)は、「一句一言を聴聞(ちょうもん)するとも、ただ、得手(えて)に法を聞くなり」と言われていますが、自分の感情や自分 の持っている理屈にあうように法を聞く。これは、自分自身が問われるということがないということです。自分を善(よ)しとして、自分を善(よ)しとするよ うに教えを都合よく聞く。聞いているのだけれども、本当に聞いているとは言えない。そういう「聞不具足(もんふぐそく)・信不具足」という問題です。聞い ている人は、自分はわかったと、心得たと。蓮如上人の言葉に「心得たと思うは、心得ぬなり」ということがありますが、わかったといって得意になることは危 険であります。本当はわかっていないということがあります。それは何故かというと、得手に法を聞くということがあるからです。
「凡夫(ぼんぶ)」という言葉がありますが、どうせ人間は凡夫なのだから何をしてもいいのだと。しかたがないのだと。これも得手に法を聞いているのです。 凡夫の身が悲しまれる、そういうことがないのです。煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫であるという自覚がないので す。自覚というのは法に触れればこそ成り立つものです。自覚が与えられるということは、仏法の真実の言葉に触れて自分という人間の事実が知らされる。人間 の有限・相対性ということを知らされるのです。
私は何でも知っていると思っていたけれども、私の知っていたのは一部であったと。そういう自覚を与えられる。これは並大抵のことではないのです。たとえ ば、夫婦の間でも親子の間でも、一部のことを知って、この人はこういう人だと思い込んでしまうということがあります。たかだか50年や60年の関わりのな かで。仏法から言えば、たかだか50年や60年くらいなのですよ。仏法の眼(まなこ)は、いま現在ということがそのまま、永遠というところに視野がありま すから。それが抜けると、人間は目先だけです。本当に知っていると思っていることも、「本当に知っていますか?」と聞かれると、ちゃんと自分を計算に入れ て知っていると。自分の都合を入れて知っていると。そこに問題が起こるわけです。有限・相対ということに気がつくということが、真実の法に触れるというこ とです。
凡夫という言葉は、そういう如来の真実の前に立った自覚なのです。どうせ凡夫だからというのは、傲慢(ごうまん)もはなはだしい、居座(いすわ)りです。 人間関係を戴(いただ)けばこそ、つながりの中で自分の生身(なまみ)の姿が知らされるのではないでしょうか。そこに人さまが鏡となって、自分の姿を教え てくださるのです。自分だけが正しいのではないと。「自是他非(じぜたひ)」ですね。自分をよしとし、他を非とする。人間はこれが強烈なのです。
6月8日に、秋葉原で無残な殺人事件がありました。事件を起こした彼は、心身ともに閉ざされている。閉ざされてしまうと、人間はここまでいってしまうのか、と思わざるを得ません。
朝日新聞の6月16日の記事によると、携帯サイトの掲示板に自分で日記を書きこんでいました。その書き込みの言葉は、彼女や友達ができないという問題。孤 立感の問題。他人への嫉妬(しっと)。書き込みをしても反応のないことの嘆き。派遣社員でしたが、首になるという不安。両親への不満。そういったものが書 き込まれていました。「友達ほしい、でもできない。なんでかな。不細工だから」「死ぬまで一人。死んでも一人」「彼女がいれば仕事をやめることも、車を無 くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった。希望があるやつにはわかるまい」。こういうところには、自分の気持ちが人にはわかるものか という、落ち込んで閉ざされると、人間にはそういう気持が出てくるのです。人ごとではないのです。家庭の中で、お年寄りと若い人がうまくいかないときに 「年寄りの孤独がどんなに寂しいものか、若い者にわかってたまるか」と、こういうことが出てきます。
どうして俺だけ一人なのだろう。こういう感情で生きている人は、この世界に限りなくいると思います。「望まれずに生まれて、望まれて死んで」「待っている 人なんて居ない。俺が死ぬのを待っている人はたくさんいるけど」「不細工な俺は存在自体が迷惑なんだっけ」悲しいですね。本当に閉ざされた孤独な気持では ないでしょうか。
清沢満之先生は、愛知県大浜の西方寺に養子に入られたのですが、結核になられた。明治36年6月6日、満39歳で亡くなられたのですが、養子先で結核の養 生をするというのは辛(つら)いものがありました。先生は、本願の教えに触れておられましたから「私は世話をうけるという、そういう一つの因縁をいただい ている。世話をする人は、世話をするという因縁をいただいている」ということで心の平静を得られたといいます。安心してお世話になると。これは大変な智慧 ではないでしょうか。なにも清沢先生だけのことではありません。現代の私たちの生活の問題ではないでしょうか。どうしても辛くて、自分のことを邪魔だと思 うとき、倫理観で、邪魔にならないように、迷惑にならないように、これは人間に起こる自然の感情だと思います。しかし、倫理観だけではどうにもならないこ とがあります。その倫理観を超えるものが信心ですね。その事実を安んじて受ける。結核になりたくてなったわけではないですね。一生懸命に生きてきて、そし て結核になってしまった。それを受けていく。世話を受けていくということは因縁であります。因縁とは、運命的な意味ではありません。明々白々な事実なので す。一般にはあなたにはそういう因縁があったのですよ、それは悪いことをしていたからですよと、相手を責めるようなことで因縁と使ったりしますが、それは 仏法の本当の使い方ではありません。
稲には稲の種があります。それが水とか太陽とかの条件が整ったところで、芽が出て、稲になるのです。明白な事実なのです。人間のいわゆる僻(ひが)んだ考 え方ではありません。おのずとそうなる因縁法なのです。清沢先生は、世話をしていただく条件をいただいているのだと。世話をする人は世話をする因縁をいた だいているのだと。平等でしょう。それが今の時代というか、人間にはなかなかはわからないのです。なぜ私だけが世話をしなくてはならないのだ。迷惑かけて 世話されるのはたまらないと。そこに閉ざされていくという問題があります。
秋葉原の事件は決してあってはならないことですが、彼の心情に触れると、人間の中にある問題だなと思います。決して他人事にはできません。しかし同時に、 心情としてどんなに寂しさや怨みを感じようとも、無差別な殺人をしてよいという理由にならないことも明確であります。
木村無相(きむらむそう)さんという方は、晩年、東本願寺の同朋会館(どうぼうかいかん)で働いていた方ですが、念仏に生きられた方です。家庭問題から若 い時に悩まれて死にたいと思ったと。そして、どうせ死ぬのならたくさんの人を巻き添えにして死にたいと思ったそうです。そこから悩んで悩んで。悩むという ことは求めるということです。親鸞聖人も苦悩ということを大事に受け取っています。「苦悩の群萌(ぐんもう)」と言われています。無相さんは、この苦悩の 深い人生を、親鸞聖人の教えに遇うことにおいて本当に豊かに生きられた念仏者だと思います。
凡夫という自覚は劣等感ではありません。悲観でもありません。こういう事実であったかという頷(うなず)きの言葉です。武者小路実篤(むしゃのこうじさね あつ)さんはよく野菜の絵を描いておられます。大根は大根となってその事実を生きると。そういう人間の事実を事実として生きるということです。
秋葉原で事件を起こした加藤容疑者の書き込みの中には、寂しい、悲しいということは表現されているけれども、自分の出会っている現実を事実として受け止め るということが感じられません。それが外に向けての不満や怨みになっています。「親が書いた作文で賞をとり、親が描いた絵で賞をとり、親に無理やり勉強さ せられたから勉強は完璧(かんぺき)」「親がまわりに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ」「好きな服を着たかったのに、親の許可がないと 着れなかった」。
良かれと思ってしたことが、人間のすることは必ずしもそうはいかないということがあります。『歎異抄』第3章に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人お や」とありますが、『歎異抄』全体を貫き通すものとして、人間の良し悪しにとらわれている問題の深さを明らかにしています。良し悪しのはからいに立つ善人 意識が破れるとき、人間であることのかけがえのない事実に出遇うのです。
人間のはからいがはいりますと、事実が事実として受けとれなくなる。自分の都合や感情にたって良し悪しをはかってしまう。親は子のために良かれと思って教 育したのでしょうね。それは親の思いであって、子ども自身にとって本当にいいかということはわからない。そこには、本当の意味で自身のあり方を問う謙虚さ がなければならないと思います。それが、聞くということではないでしょうか。子ども自身は、本当はどうなのだろうかと。聞くということは信心をあらわすこ とですが、決して難しい、生活からかけ離れた高踏(こうとう)なことを言っているのではありません。私たちの生活の中にある、人間の一番深い願い、本願で すね。言葉を変えて言えば、悲しみとか、憂いとか、寂しさとか、辛さとか、生きる意欲を失うということも出てくるかもしれません。そういうものが本当に聞 かれていくことであります。
「自見の覚悟」というのは強烈なのです。事実は一人ぼっちではないのです。両親もいるし、友達もいるし、仕事の同僚もいる。事実はいろんなもののお育てを いただいて生きているわけです。ひとりで生きてきたのですか?そうではないでしょう。お母さんは命がけで産んでくださって、育ててくださって。そこには育 て方の問題はあったかもしれません。しかし、ありとあらゆる人々の世話になり、命の恩恵をいただいて、生きているという事実があるのだけれども、その事実 が見えないのですね。
仏法は、人間の本当に孤独な、寂しい、暗い、辛い、誰にもわかってもらえないと思うような人間の一番深いところに、その人の思いを超えて至り届くはたらき であります。それが阿弥陀の光です。それが阿弥陀の大きな悲しみであります。その呼びかけが南無阿弥陀仏という念仏の声であります。
人間の中にある深い闇、執着。それに取りつかれますとなかなかそのはたらきに気がつかない。届かないということは、無いが如(ごと)しです。「信心を要と す」と『歎異抄』の第1章にでてきます。このこと一つが人間の生きる意味を見いだすかどうかを決めていくということではないでしょうか。
親鸞聖人のご和讃に「無明(むみょう)長夜(じょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしと悲しむな 生死(しょうじ)大海(だいかい)の船筏 (せんばつ)なり 罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ」という言葉がありますが、人間の本当に深い悩みや悲しみが詠いあげられ、悲しみなげきのなかに 呼びかけられています。
秋葉原の事件の彼が、こういう言葉の、こういう響きの一滴にでも触れていれば、人生は変わってきたのではないかと思われてなりません。(講演要旨・後省略)

明順寺住職:齋藤明聖