坂東性純先生のご命日を期して開催される法座です。東京ではなかなか聞くことのできない池田勇諦先生の講話です。
今回は、お念仏を称(とな)えるということは、私たちにとってどういう体験なのだろうか?ということについてお話くださいました。私たちは聞法ということ をとても大切にしています。それはあたかも法を追いかけている私があるようなものです。しかし、さとられる法(真理)と、さとる人(私)が二つであるかぎ り、さとりにいたることはできません。二つがひとつになること、それがさとりです。
法と私を実体化しない。仏法というものは固定化したものではなく、具体的に生きて働く働きそのもの、融通無碍といわれる所以であります。
法を私のなかに受け取るのではなく、無限絶対のなかに相対有限(私)を見いだすのです。
池田先生は、「私が法のなかに消え入る」といわれました。「私という私はない。さとるというのは無我の自分に気づくこと」「存在が念仏している」「身が念 仏している」と表現されました。曹洞宗の道元禅師は「心身脱落 脱落心身」といわれています。訓部信雄氏は「仏法が腹に落ちた?そんなもんじゃない。腹が 落ちるんや!」といわれたといいます。仏法の身であったのだなあ、と気づく。これが「あら心得やすの信心や」ということでありましょう。次回は、9月18 日13:00からです。
明順寺住職:齋藤明聖