第146回:「正信偈講座」のご案内

明順寺では、奇数月第2土曜日14:00~「正信偈講座」を開催しています。講師:中津功先生。参加費1,000円です。

最近は、明順寺所属のご門徒さまに限らず、ご縁のあった方々も参加しておられます。

皆さまのご参加をお待ち申し上げます。

正信偈講座(第一回)部分

中津 功 先生

私が「正信偈」の言葉に出あったのは高校二年生のときでした。友だちの家の床の間に「正信偈」の軸が掛けてあったのです。

そのとき「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我…」。

特に、煩悩が眼を障(さ)えて恵みの光を見ることができなくとも、弥陀の大悲は、倦(あ)くことなく、常にわが身を照らしたもう、というところが印象に残りました。

私たちは、すでに大悲の光に照らされているのです。照らされているのだけれども、その自覚がないということですね。自覚がないということは、人間にとってまことに悲しいことです。

この命がいかされているということは、如来の大いなる大悲のはたらきのなかに、生かされている。内容を言えば、生きとし生けるものの命をいただいて生きているということです。

生きとし生けるものの命をいただいて生かされているのだなという、そういう自覚がなかなか乏しいわけですね。

大悲無倦というところには、人間の悲しみということも、そこにはあるわけです。まあ、人間の悲しみは、小慈小悲とも言われますが、私たちが育ってくるのに親を一度も悲しませなかったかというと、どうでしょうか。私は、とても言えません。

しかし、そういうことも、如来の大悲に遇うということにおいて、大事なご縁となりましたねと、そういう意味が与えられてくるのであります。

(文責:住職)

中津 功先生