「春の彼岸会法要」つとまる

小雨がぱらつく朝でしたが、次第に天気になって大勢の人がご参詣くださいました。60部の資料がなくなりましたので、ご参詣は70名くらいかと思われます。

住職・副住職・開導寺住職・表さん、以上の4名による勤行が荘厳に勤まりました。次第はいつものとおり、住職登高座にて阿弥陀経を始経。ご参詣の皆さまには、経中にお焼香していただきました。住職復座して、正信偈同朋奉讃。皆さまとともに唱和しました。

皆さまにはお念仏のお志をお運びいただきまして有難く厚くお礼申し上げます。

副住職からのお話
【阿弥陀の誓願・四十八願】
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。(真宗聖典204頁)

(阿弥陀様が法蔵菩薩という位だった時に、世自在王仏の所へ行って、色々なお浄土を見せてもらいました。五劫という長い時間をかけ、どんな人も救われる浄土を作りたいと思い、四十八の願をたてられました。そして、その願いがみんなに聞こえますようにと、重ねて誓われました。)

【第十願 漏尽通の願(ろじんつう)の願】
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、もし想念を起こして、身を貪計(とんげ)せば、正覚を取らじ。(たとえ私が仏になっても、人が、意識せず、様々なことに執着するならば、私は仏にはならない。)

【お浄土の姿】
以前ご門徒さんから「帰依処ってなんだろう?」という質問をいただきました。第十願を手掛かりにお答えするならば、知らず知らずのうちに真実でないものを大事にしてしまう私たちが、自分の思い考えを捨てて、帰っていくところを帰依処といい、そこに帰らせてくださるおはたらきのことを本願、阿弥陀、浄土という言葉で表現しているのではないかと受け取らせていただいています。

スーパーで買い物をしていると、手元がおぼつかないおばあちゃんに対して、息子さんが「早くしろよ」と怒っていたことがありました。店員さんが「ゆっくりで大丈夫ですよ」と声をかけると、おばあちゃんも息子さんも安心した顔をされていました。

その店員さんの声かけは優しいだけではなく、息子さんに対しての厳しさもあったと思います。後ろの人への迷惑や、動作が遅いことへの苛立ちで頭がいっぱいになっているその姿に対して、それだけでは悲しいと。高齢になるとどういう姿になっていくのか、その事実を受け取る大事な時間ではないかと、そういう呼びかけを感じました。

真実をいただくということ、賜るということが忘れられている時代になり、自分にとってはどうかという、評論家のような態度をとることが一般的になりつつあります。頭が上がり切ったその姿を、阿弥陀仏は自分のこととして背負い、苦しんでくださっています。

能力があることが良いこととされる時代ですけれども、本願の教えに遇うと、立派なことはできなくても、自分のできる精一杯を尽くして、生きていけばいいのではないかと教えていただきます。

自力を尽くして生きますけれども、時々、本願に帰って、私が私のままでいいというお許しを頂き、安心して生きていきたいと思います。