東京2組「門徒会報恩講」講義録

去る2月17日、東京2組門徒会主催の「報恩講」が聞成寺にて開催され、門徒会員2名と参加させていただきました。

法要後に法話があり、その折の講義録を起こしましたので掲載しておきます。

平成三十一年 二月 十七日
東京二組門徒会報恩講
講題:「報恩の今を生きる」
講師:渡辺誉東京教区駐在教導

初めに「三帰依文」を唱和いたします。

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

先程紹介がありました、東京教区駐在教導を勤めております、渡辺誉と申します。今日は東京二組門徒会の報恩講ということでお招きを受けまして、お話をということで、友松組長様と、門徒会長様にご依頼をされてまいりました。私を見るのは初めての方もいらっしゃるかと思いますけれども、よろしくお願いいたします。

東京教区の駐在教導を拝命してから、丸々三年が経ちました。二〇一六年一月六日より拝命、八日に東京教区に着任をさせていただきました。その後すぐに東京教区の報恩講がありました。つい先日も二十六日帰敬式、二十七日逮夜、二十八日が日中ということで、東京教区の報恩講が円成いたしましたことを、感謝と共に報告を申し上げる次第でございます。ありがとうございます。皆様におかれましては、日頃、京都にあります真宗本廟並びに練馬にあります真宗会館にも、ご懇念をいただいていることも併せて感謝申し上げる次第でございます。ありがとうございます。

この東京二組の門徒会で、報恩講を勤めると聞きまして、大体は門徒会でありますと研修会ということで、お勤めをして法話を聞いてということでね、変わりはないのですけれども。やはり報恩講ということで、皆さんがこうして集まることは凄く大事なことですよね。普通の研修会というよりも、報恩講とつきますと、年間最大の事業、法要ですね。親鸞聖人の威徳を喜んで、その仏様の願いのもとに生きていくということが報恩講であると思います。

報恩講というのは、京都の東本願寺でも十一月二十一日から始まって、二十八日の御満座までということなのですけれども、別にその日に限ったことではないのです。昔の先達方は、報恩講は門徒にとってみると、「三百六十五日、毎日が報恩講です」ということを言われてきました。ただ毎日こうやって打敷を飾ったり、お花を生けたり、飾り灯芯をしたり、お供物があがったりということになると大変ですね。だからその日に、親鸞聖人の御命日二十八日、お西は一月の十六日ということで定めておりますけども、お東は十一月二十八日が御命日なのだということで、この一週間を七昼夜ですね、お勤めさせていくということがやはり報恩講のことだと思います。

私は実は今、お預かりをしている寺が三重県の員弁組というところでありまして、皆さんご存知ですか?知らないですよね。多度大社は知っています?多度大社も知らないですね。五月の連休の初日に、神社の参道に馬を走らせて、ここの一番上よりも高いところを背中に中学生の男の子を乗せて、一気に駆け上げるという。大変危険なのです。上がれるわけないので、その馬を上がらせる為には興奮させないといけない。酒を飲ませたりとかする。だからいつも毎年動物愛護団体からやめてくれという。それを無視してというか、いや、これは神事だからといって。そのニュースを見たことないですか。私もニュースで見ていて、まさかその近くのお寺に行くとは思っていなかったのですけれども。私はそこの生まれではなくて、二〇一一年にそこの娘と見合いをして、そこのお寺に入寺して、すぐに住職になりました。

元々は新潟県の糸魚川市。今は糸魚川市と言っていますけれども、西頚城郡という名前のところに。それも知らないですよね。西頚城郡能生町というところがありまして、小泊という、ちっちゃなちっちゃな漁村が私の故郷です。今日、僕、上野に来て、昔はここで降りたなって。凄くなんか、駅の建物を見たときにね、いつもここは僕らの玄関口だったなと思って、そこから歩いて来させていただきました。なんかいろんなことが、去来するものがあったのですけれども。

西頚城郡能生町小泊というところに生まれて。門徒の家です。日本海は皆さん、いろいろ見たことあると思うのですけれども。その新潟県西頚城郡能生町というところは海岸線もあるのですけど、殆ど入り江になっています。その入り江、入り江に一つ村ができているのですね。風も強いところです。今日もたぶん降り荒れていると思います。去年の秋から今年の春まで、晴れた日が指で数えてもあるかないかの、毎日が鉛色の空の中で生活しています。日が昇って、日が暮れるのも凄く僅かな時間なのです。遅く日が昇って、海に沈まないで、山から昇って山へ沈むので、もう三時、この頃になってくると暗いですね。こんなに明るくないですね。そんなところで育ちました。

私には一緒に暮らしていた祖母がいました。おじいさんは私の父がまだ三つの頃に病気で亡くなっていて、私はおじいさんと会うことができなかったのですけれども。おばあちゃんがいて、父、母、それと姉と私と弟がいて、六人で暮らしていました。たまに実家に帰ると、こんなに小さな家によく六人生活していたなあと思うくらい。ここで暮らしていたのだなとたまに思いますね。今は一人に一つテレビがあるような時代。昔は小さな茶の間に一つのテレビがあって、それを六人みんなで観ていた時代です。昭和の名残みたいな話ですけれども。

そんな中で私、先程こちらの佐竹ご住職にも話させていただいたのですけれども、元々そうやって真宗のお寺に縁があるおうちで生まれて、私、今どうしてこう袈裟、衣をつけ、しかも東京教区の駐在教導を拝命しているというかというと、僕は元々お寺さんになるつもりはなかったのです。皆さんと同じ在家のままで、親鸞聖人のお勉強はできると思っています。それで十分だと思っています。門徒として親鸞聖人の教えを聞いて、そして安專寺というお寺を盛り立てていこう。中学校の頃に、先輩二人と「歎異抄の会」というものを立ち上げたことがあるのです。中学生がね、『歎異抄』を知っているわけないのです。元々、知っている人もいるかもしれないのですけれども、僕は知らなかった。

昔、東京専修学院というのがあったのですね、そこにいた方が、私のお手次寺のお寺に夫婦二人で東京から入ったのです。そこの保育園に勤めている坊守さんと、専修学院にいた住職さんと、まだその時は住職ではないですけどね。あと零歳になる女の子と、三人で新潟のお寺に来たのです。それで村の中のお寺でそんな門徒数のないお寺です。たまたまその方が大学を卒業されて、その後、銀行に勤めていたということで、村の門徒の子どもにね、学習塾で勉強を教えてほしいという門徒さんからの要請があったのでしょう。本堂の横に小さな部屋があって、そこに中学生の一年生、二年生、三年生を週ごとに変えて学習会を、寺子屋塾を開いてくれたのですね。

私の五つ上から始まって、四つ上の姉もそこに行きましたし、僕もそこに行きました。中学校一年生、二年生は週に一回数学を勉強するのですけれども、三年生だけは英語と数学も習うのです。週二回行かなきゃいけないのですね。最初に「正信偈」、同朋奉讃を勤めてからお勉強をしていたのですけれども、中々身に入らず。ただでさえ学校で勉強していないのに家に帰ってきて勉強する気になるわけがないのですよ。親に行けと言われてしぶしぶ行っているだけです。それで行っていたのです。

そうしたら中学校三年ぐらいになったら住職さんが勉強を教えてくれなくなって、親鸞聖人の話をし始めたのです。でも元々僕は親鸞聖人に関しては家に帰ると厳しい祖母が、御開山聖人様って言っている。でも住職さんが語る親鸞聖人が中々一緒にならなかった。なんでだろうと思いながら、でも勉強しなくていいなら住職の話でも聞いていようと思って、脱線しろしろって思っていたのです。そしたら隣の女の子が、「高校受験のために来ている。先生脱線しないでください」って切ない顔して言うのです。僕は地元の学校に行くだけだから勉強しなくても入れる学校だったのです。今は違いますよ。今はその学校は凄い学校になっちゃいましたけど。

そこへ行っている間に中学を卒業して高校生になったときに、日曜日に住職さんが呼ぶわけです。「誉、高田の別院で法話があるから行くか?」って誘ってくれたのです。僕はその当時そんなに車に乗っている家もなかったので、住職さんと車でどこか出かけるというのが楽しかったのですね。高田というところ皆さんご存知ですか。高田に別院があります。その別院に車で行くと、いろんなもやもやがね、ぱーっと消えていくような感じがして、行った場所で聞いたのがいろんなご法話だったのです。三國連太郎さんという方がいらっしゃって、ちょうど「白い道」という映画を撮り終えたぐらいの時に、ちょうど連れていってもらってお話を聞かさせていただきました。

新潟の西頚城郡は、ご流罪の地でもあるわけです。ご流罪ってわかりますかね、親鸞聖人流されて、船に乗った。船が着いた場所は皆さん有名だから知っているでしょう、居多ヶ浜という、直江津というところです。京都から陸路でたぶん北陸の道を歩んで行って、滋賀県、福井、それから石川県に入って富山。そして新潟の親不知というところ知っていますか。そこを通って木浦というところです。これは同じ能生町の中にあるところです。その木浦から実は乗船されたというふうに。木浦の鬼舞っていうところで。そこから小さな小さな木っ端船に乗ったのでしょう。二〇キロ北上した居多ヶ浜で上陸したというわけです。そこのある地ですから、その映画を撮った三國連太郎さんもお話に来たわけなのですけれども。

そういうことをしているうちに私の近所の先輩、一つ上の先輩が、夏に家出をしてしまって、お寺に来ていると連絡があったのです。住職さんが「お前と仲が良いから、お前もちょっと来て、彼を説得してほしい。どうやら父親、母親と喧嘩をして家を飛び出てきたらしいのだけど」と。すぐにお寺に行ったら、その一つ上の先輩がいて、「話はわかったから、荷物とかお金とかみんな持ってきたのか?」って聞いたら「何にも持ってきていない。怒ってすぐ出てきた」って言う。「それじゃ家出にならないでしょ」って言ったら、「でもね」って、お尻のポケットから紫色の本を出したのですよ。

それが『歎異抄』です。昔、東本願寺から出ていた『歎異抄』って紫色のちっちゃい本だったのです。あれをポケットから出したのです。その時に、「その本何?」って聞いたら、住職さんが私にもその紫色の本をくれて、「これ『歎異抄』っていうのだ。親鸞聖人のお弟子さんが書いたって言われているのだよ」って。「あ、そうですか。この本は何が書いてあるのですか」って聞いたら、「じゃあこれについて勉強するか」って。僕の友だち、あるいは先輩の友だちを呼んで、そこから中学三年生、高校一年ぐらいの時から始まったのです。今もその会はまだあります。今は同朋の会という名前になって、残っております。月に一回、第二土曜日にやっておりましたね。

ものすごく楽しかったのですけれども、その一つ上の家出した先輩が、次の年の夏にバイクで事故を起こしまして亡くなりました。強烈なショックを私は覚えています。人が生きて、そして死んでいくということが身近にも起こるのだと。昨日元気にしていた彼が、次の日には冷たくなっている。そのときに私は無性に怖さを感じました。僕もこういうふうになっていく。いや、しかし、とてもじゃないけど、引き受けられない。そういうショックと、頼っていた一人のお兄ちゃんみたいな存在だった先輩が亡くなっていった。その虚無感ということでしょうか。とても何か月かちょっと籠ってしまうような出来事でした。

今そのことがたぶん私を突き上げて、在家の身から僧侶にさせてくれている一つの後押しであったかなと思いますね。実は亡くなったのは彼だけではなくて、六つ上の先輩が同じくその前後にバイクで亡くなりました。今その方の弟さんたちがお寺に来ております。一人は世話方になってお寺で活躍しております。僕と同級生なのです。

そんなことがあって、そういう時にまた東京に来て仕事をして、蓮如上人の御遠忌で新潟に帰ったときに、推進員養成講座というのが始まって、そこに飛び込んで入って、それからいろんなお勉強をさせてもらいながらしているうちに、こういう袈裟、衣をつけるような縁がありました。九州の大川市というところに大きなお寺がありまして、そこで役僧というか法務員というか、お手伝いをするのですけれども、そこで十四年間勤めさせていただいて、たまたまそこにお話に来ていた先生が三重県の方で、それで見合いをしたのですね。自分はね、毎日見て感じて思うことを、固めていくという作業をずっとしてきたなと。親鸞聖人の教えを聞いても、目にして耳にしたことを固めていくということをしてきました。

例えば、その妻と見合いをする前に写真が送られてきて。僕、旧姓が磯貝っていうのですよ。「磯貝君も写真を出してください」と言われて、写真を撮って送ったのです。まだ九州にいて、彼女は三重にいて。彼女から写真が届いて、見たら天海祐希さんが写っていたのですよ。似た人ね。そのものではないですよ。「あっ、凄い、綺麗だ」って。見合いの会場に行ったらどこにもいなかったのですよ。ここだけの話にしてくださいね。あれっこの人に似ているけどこの人ではないのだけどなと思いながら、その人だっていうことがわかってですね。しかも後には引けずそのまま結婚したという話なのですけど。それはちょっと例え悪いなあ。

多度から少し入ったところに古野という村があって、小さい村なのに真宗大谷派のお寺が並んで二つあるのですよ。そこの前坊守さんが亡くなったので私は住職ですから、葬式の導師を勤めなければならないということで、帰ったのですね。お葬式も終わって、還骨も終わって帰ろうとしてそのお寺の門をくぐろうとしたときに、後ろからそこのお寺の総代さんが、「あんた帰ってきておったんかい。よう帰ってきたな。なんや、すぐ帰るんか」っていうから、「はい。これから着替えて妻に送ってもらって新幹線で帰ります」って。「そうか。近くに、牛を捌いているホルモンの美味しいところがあって、そこにあんたを一回連れてってあげたい」と言うから、「いつかお願いします」と。「いつかお願いしますというてたけどいうてるうちにあんた東京に行ってしまったな。一回食べさせてあげたかったんよ。今日いるなら早速そこへ行って捌きたてのをもらってね、食べてほしいのだけど」って言うから、「すいません、僕もうこれから帰ります」って言って東京に帰りました。

次の日に、妻からメールが届いて、「昨日、総代さんが、間に合うかもしれないってホルモン届けてくれたのです、うちのお寺に。もう誉さんいなかったので、家族三人で美味しく食べました」と。美味しく食べたのか。うーんってなりますよね。その時は、へえくらいです。その後に、「つきましては、その方に電話をして、誉さんからお礼を言ってください」って書いてある。一つも食べてないのですよ。舐めてもいない。なんで俺がそんなことをしなきゃいけないのかというこう、むらむら感が起こってきて。ないですかそういうこと。これ僕のそういうところを皆さんに聞いてほしいのですけれども。余所行きはそうではないですよ。すぐ僕もメールで「わかったよ」ってメール返信しましたよ。でもわかっていないのです。なんで俺が、お前らの食ったものを、俺が一つも食べてないのに礼せなあかんねんってなる。

だけど、その総代さんは、食べてほしいという思いから急いで行って、それを買ってきて届けたけどいなかった。家の人はどうするわけにもいかない。冷凍して送るとまた鮮度が落ちる。だから前住職と前坊守と坊守三人でね、美味しく食べなきゃいけない。でも持ってきたのは俺に食べさせてあげたいと思って持ってきてくれているわけなのですよ。だから僕も「今回はちょっと食べられなかったけど、今度は食べられるようにします」って快く電話をすればいいですよね。そんな気持ちはないのです。本当のこと。余所行きではいくらでもでも言えますよ。でも僕から起こってくるのは、なんで俺があんたらの代わりに礼を言わなきゃあかんのやというものしかないのですよ。これが僕の心の底ですよ。本当にその日一日腹立ってね、眠れないくらいに腹が立って。

でもなんで腹が立つのかと思うと、僕がね、そういうふうにしかものを見ていないし、そういうふうにしか感じ取れないものしか持っていないということなのです。それを教えてもらっているのです。だから妻もね、良い用きをしてくれているのですよ。でも良い用きとは思わない。こいつなんもわかっておらんなというぐらいにしか思っていない。というところを教わるのです。僕の中にまことはないのですよ。真実信心のかけらもないのです。

先程、『御俗姓』で「真実、真実」って言っていましたけれども、そのことは親鸞聖人がいただかれたものです。二十九歳で源空上人の禅室にまいりとありました。九歳で青蓮院から比叡山に上がって、お母さんお父さんと別れて、そして二十年間比叡山にいますけれども、まことの心というものを教われなかった。それが聖徳太子の六角堂の夢告によって法然上人のもとに行き、ただ念仏という教えをいただきました。

その二十年間のことや、何故親鸞聖人が聖徳太子の夢告を聞くように六角堂に行ったか。これは端的に言えば、親鸞聖人自身が在家ですよね。ですから在家仏教と言えば、聖徳太子が、日本で一番最初に受けられた方が聖徳太子ですよね。聖徳太子は何故六角堂を建てたのかということをご存じでいらっしゃいますかね。

聖徳太子は若い頃に淡路島の方で持仏を、何故か手に入れることができた。持仏というのは仏さんのものです。それがお櫃に入っていたということもあるし、流れ着いたというふうに、いろんな伝説があります。それを聖徳太子は持仏として、持っている仏様として首から下げて、大阪に四天王を建立するために、資材を探しに、大阪のほうから京都に馬を走らせました。その時に池があって、体を清めようとして、木にこの持仏をかけて、沐浴をして、終わって上がってきたときに取ろうとしたときに持仏が取れない。この持仏は如意輪観音です。救世観音菩薩です。取れないということは、この仏様が、観音菩薩がここにいたいということなのだろうなということで、その池の近くに堂舎を建てたというのが六角堂の始まりだそうです。

何故六角なのですかね。僕、水産高校に行っていたからすぐわかりました。水という字です。水産高校って普通金ボタンをしないのですよ。邪魔だって言ってホックで。なんでかというと、室内でボタンだと狭い船室で入れ違ったときに引っかかってしまうから、ホックや今だとチャックとかなのですね。僕のところの水産学校は何故か金ボタンが六角の星だったのです。先輩から「どうして六角の星かわかるか」って。「水から来ているのだよ」と。まあこれは余談ですけども。その六角というのは水から来ています。

御池というところがありますよね。池坊。池坊の近くに頂法寺があって、そこが六角堂です。今度また京都に行ったら、そちらの方にも行ってみてください。親鸞聖人の御堂みたいなところがあります。そういうことで、六角堂にお参りに行った。

百日籠ろうとしたときに、九十六日目の暁の日に夢告というものを受けて、その夢告で吉水の法然上人のもとに行って、ただ念仏という。その前に、一説によると十九歳のときに大阪に磯長というところがあります。そこの大乗院というところでも一度夢告を受けたと言われていまして、十年後、また六角堂に行って、お念仏をいただくということで、法然上人と、そこからまた吉水でそれこそ男女老若の皆さんが、集ってお念仏の教えを聞いている。凄いところだなあとびっくりしたのですよね、親鸞聖人。しばらくして念仏停止の法難にあって、京都から直江津、居多ヶ浜に行って、一応七年というふうに言われているのですが、四年でという話もあります。関東のこの地に来て、二十年間活動されてからまた京都へ帰っていかれたということです。そういった親鸞聖人の中でもですね、自分の中に湧き上がってくる、貪りの心や、怒りの心や、そういったものが隠せない私がいるわけですね。

私がその三重のお寺に入って、私と妻が使うお手洗いがあるのです。父と母はまた別のところで。その母屋から座敷を通って、私と妻が住んでいるところがあるのです。その間にお手洗いがあって、用を足して、お水出して手を洗うでしょ。そうするとタオルで拭きますよね。タオルで拭いたらちゃんと元にピピっと戻しておくのです。四隅をこうやって。それで彼女が使って、僕がまた入ると、そのタオルがくしゃくしゃになっているのですね。スリッパもこんなになっているのです。僕がそういうことは明治生まれの祖母に、こっぴどくやれと言われているので、もう染み付いているのですね。これは良いとか悪いとかの話ではないのですよ。「整えて、次の人が使いやすいようにしておきなさい」と言われて育っていますから、たとえ妻と二人であってもちゃんとやっておくのですよ。次に行くとまたなっているのですよ。凄く気分が悪い。

こういうこと一個にしてもね、こんな笑うような馬鹿くさいことでもね、自分の思いが通らないからとむかむかしてね、腹立ってまた寝られなくなる、ということを彼女のそういうところから教えていただいているのです。「なんで、スリッパを揃えておかないの?なんでタオルきちんとしておかないの?」って言えないのです。「出ていけ」って言われたらどうしようかと思って。たぶん出ていけとは言わないでしょうけれども、一触即発になったら怖いじゃないですか。一個言って百個ぐらい帰ってきたらどうしようっていう。そういう恐怖心がありまして、面と向かって言おうかなと思っても出ない。

四人で食事をしていて、僕だけ婿に入ってきて、流儀というか、違うわけですよ。魚を食べるでしょ。魚を三重でも食べるのです。父は元々大垣から婿に来ている。婿が続いているお寺なのです。僕は新潟から来ているので、魚は焼いてあろうが煮つけであろうが頭だけ残してきれいに食べる。片付けて洗うでしょ、そうするとみんなで指さしているのですよ。僕の食べたのを見てね、ほらこんなにきれいに食べてるよあの人って。自分たちはね、いろんなところ食べて終わっているのですよ。なんか嫌だなと思ってね、僕が嫌味みたいでね、きれいに食べているっていうのがね。これちょっとやりすぎだと。適当にくちゃくちゃって食べておいた方が逆にいいのかなと。そういうふうになりますね。

一番凄かったのは、結婚して一年終えた時に、父と母が外食に行って、僕と彼女が夕ご飯二人だけだったのですね。いつもは父が一番最初に風呂に入って、次が私なのです。順番も時間も決まっているのです。次はどうなっているか知らないです。母が入っているのか、妻が入っているのか知りません。ただ、一番最初は父なのです。次が僕なのです。

「父と母は帰ってきてから入るので、ご飯を食べたら誉さん先に入ってください」って言われて、九月ぐらいでした。裸になって、シャワーして、ぽちゃんて入ったら水だったのです。もうね、そのまま足を戻して、今から沸かすか。そんなまあいいやと。シャワーだけして着替えて。ちょうど台所に戻ったら、父と母が帰ってきて、三人でいろんな話をしていたところに僕が入って。

これどういう感じでかましてやろうかなと。そう思うでしょ。本当にね。ちっちゃいのです、僕。本当にちっちゃいのです。もうだいぶわかってきていると思うのですけれども。それでちょうどいい感じの時に、「お風呂」って言ったのですよ。どういうふうな効果的なパンチを入れてやろうか。「お風呂」って言ったら、三人が話していたのをパッとやめて僕の方を見たから、「お風呂水だった」って言ったのです。

そうしたらまず母が妻に、何でちゃんと確かめないで誉さん案内したのって怒ったのですよ。そこを僕がやってくれと、さてあんたたちでちゃんとこれをまとめてくれよと。僕はボールを投げたのだから、という思いでいたのですよ。そしたら妻が、「だって出がけにお父さんがお風呂入れたって言ったもの」って言ったら、「わしは風呂入れたじゃなくて、水入れたって言ったやん」って三人で喧嘩し始めたのです。それで僕はどう決着付けてくれるのかという思いでね。「まあちゃんとせなあかんなあ」みたいな話になって。

僕も自分の部屋に戻ったときに、こうやって自分が入る時に手を入れて、水だったらああ水だなって思って入らなくてね、沸かせばいいじゃないですか。そういう気にはならないです。やってやられたっていう気持ちにしかならないです。僕の場合ね。その時に、もう全部こういうことは僕以外の人がそれをやっているという思いがあって、そしてそのことを許せないという。そういうことが僕の根性なのです。

昔の人は言いました、「私の腹底が見えたら、親でも裸足で逃げていく」って。聞いたことないですか。私の腹の底の黒いところを親が見たら、親も裸足で逃げていくという。凄いなあと。育てた私の責任だと思わない。その子の黒いところを見たら親でも裸足で逃げていくという。凄い言葉だなと思います。要するに姿勢が高いのです。仏法を聞いたらね、そうじゃなくなって、いい人間になってね、理解力もあって、そういうふうに一日を、と思ったらとんでもなかった。自分の真っ黒のところを教えてくれた。次の日、「ごめんね」って言ったら、「は?」って言われました。これも凄いなと思いながら、「いや、うん」って言ったら「何がですか」って言われて。「どうかしました」って言われたらね、そんなことにならないですよ。「は?まだなんかあるんか?」みたいなこと言われて「なんでもないです」って。

ところがね、僕もそれを教わったらじゃあ次からそうできるかっていうと、次もそうできないのですよ。少しは場の雰囲気を見ますよ。だけど、心の絵が変わっていない。仏法を聞いて聞いて聞いて聞きまくっていても、僕の腹底は変わらないのですよ。ちょっとマシになるということにならないのですよ。

本当に自分の真っ暗なところを見せていただく。でも真っ暗のところを見せていただいて、ああつまらんな、俺はこんな根性しかもっとらんかと。じゃあこの先あなた生きていてもしょうがない、というふうにはならない。ならせない用きがちゃんと届いておる。自分で思ったことではないのですよ。本当にね。

これから報恩講という冊子を使ってお話をしたいと思うのですが。皆さんこういう『今日の言葉』とか『真宗の生活』とかご住職さんからいただいて目通しています?通す時もあれば通さない時もありますよね。でも大事にしている方もあるかと思うのですけれども。この中にこれ、この『報恩講』という。これは実は一昨年の『報恩講』という冊子なのです。でも仏教、とりわけ真宗というのは、何年前の冊子であっても、今、届くということが大事なのですね。

私、「祖母の親鸞聖人の話、懐かしいな」って言ったら、「それは懐かしいということではないのだ」って先生からお叱りを受けたことがあります。「今、お前に届いている」と言われました。その言葉を思い出して懐かしいと。思い出しているのではない。今、そこに出遇っているのだと言われたことがあります。古いとか新しいというのは、私が古くさせているのです。法自体は古いものではないのです。

これはお二人の方が書いておられまして、一つ目は「報恩講と私」ということで正親久美子さんという前々坊守会長ですかね。正親含英さんの孫娘さん。もう一方が、高柳正裕さんという、この方も以前は東本願寺の本山の方で教研に勤めてらっしゃった方で、在家の方です。

この方が書いた『報恩講』という冊子の前に、実は『飛騨御坊』というものがありまして。岐阜県には教区が三つあります。東京教区は一都八県にまたがっているのですけれども。岐阜県になると、多いもので教区が三つに分かれている。飛騨高山を中心としている高山教区。それから岐阜市内を中心として岐阜教区。それから西濃地区の大垣のほうを中心とした大垣教区。県の中に三つあるのですね。『飛騨御坊』というのはその中の高山別院から出している冊子があるのですけれども、念じられ照らされて怨みの呪縛から解かれる道。高柳正裕ということで、最初にこの『飛騨御坊』が出て、その後にこのさらに『報恩講』というところで詳しく述べられているところがありまして、もしまた皆さんおうちに帰って見つかったら読んでみてください。これを今日、皆さんと一緒にいただこうと思っています。

【補足資料】
「真実の親」に遇う
学仏道場「回光舎」舎主
同朋大学非常勤講師
高柳 正裕
後ろの自動車からクラクションを鳴らされて、怒りに駆られて人を殺してしまったという事件が起きたと聞いても、「またか」と思って、私たちはこの頃、驚かなくなっているのではないでしょうか。何故なら、自分も何かのきっかけで暴発するかもと、感じているからなのかもしれません。今の私たちは、一寸でも相手に非があると、徹底的に責め立て、怒鳴りつけ、土下座をさせたくなる衝動に駆られてしまいます。どうして、これほどまでに私たちの心は苛立ち、すぐに臨界点に達してしまうようになったのでしょうか。

ニーチェが「神は死んだ、俺たちが神を殺したのだ」と叫んでから既に百年が過ぎ、「安楽浄土」とか「如来大悲」という言葉が心に響かない「近代文明社会」を生きている私たち。振り返ってみると、小さい頃から、どこに居ても採点・評価され、点数が低いと、「何をやっているんだ」と責め立てられ続けてきました。しかも責め立てたのは、他人だけではなく、一番身近な親や祖父母であったりもしました。それ故に、学校や職場だけでなく、自分の家でさえも安らげる場所ではなくなってしまって、いつも見捨てられるんじゃないかという怯えと怨みが、心の底にずっとあるのではないでしょうか。

こうして私たちは、いつも周りからの評価の眼に晒され、怯えているので、ハリネズミのように誰に対しても警戒心をいだき、自分を防御せずにはおれません。ハリネズミのような私たちの心は、世界の中に独りぼっちだという深い孤独感で覆われていて、たまに自分のことをわかってくれる人が現れても、「きっと、この人も私から離れていくだろう」という深い疑いが消え去ることがないのです。

ところが驚くべきことに、そうした私たちの、怯え怨む心を、如来は自分のこととして深く悲しみ、全存在を賭けて、大いなる安らぎを衆生に実現せずにはおかない(「一切の恐懼に、ために大安を作さん。」<『仏説無量寿経』「嘆仏偈」>真宗聖典十二頁)と、深く決意しておられるのです。

実の親でさえも、子どもを裁き、捨てることがあります。しかし、如来は裁きません。無条件に「そのまま」と呼びかけ、受け入れてくださる。そうなのです。悲しいことですが「実の親」は「真実の親」ではなく、如来こそが決して見捨てることがない「真実の親」なのです。しかし「そのまま」との声は単なる受容ではなく、自分を握り、守る、その自分を投げ出せ、という「絶対否定」の声です。その声が真に身に響き、聞こえる時、殻を作り防御している、その自分全体が投げ出され、無条件の世界が開かれるのです。

しかも、その如来は、どこか遠くにいる神がかった神秘的な存在ではありません。私に「そのまま」と呼びかけてくださるのは、私に先立って如来の心にふれた師であり、師の中に如来は生きてはたらいているのです。その師は、「私はあなたの師だ」とは決して言わず、逆に、「あなたは私の深い親友です」と言われ、世の中の人すべてが、そして実の親さえもが私を見捨てたとしても、私を無条件に信じ、いつも隣に居て、あるいは先に歩んで、呼びかけてくださっている。そのことに気づかされ、自分が投げ出される時、凍り付いた心は溶け、孤独から解放されるのです。すなわち、「真実の親」である如来に遇える時、同時に、「真実の友」「師」をいただくことができるのです。その時ハリネズミの針は消え、深い警戒心と怨みは溶け、冷たい風こそが自身を立ち上がらせてくれる暖かい風と感じられるようになる。そして、不思議にも、どんな人をも敬い信じ、一切衆生の苦しみを自分のことと感じ背負う「報恩の今」を、いつも新しく生きることができるのです。

題が、「真実の親」に遇う。ルビが真実の横にまことと書いてある。まことの親に遇う。学仏道場「回光舎」舎主、同朋大学非常勤講師、高柳正裕。最初はバスの運転手の刺殺事件から始まるのですけども。

後ろの自動車からクラクションを鳴らされて、怒りに駆られて人を殺してしまったという事件が起きたと聞いても、「またか」と思って、私たちはこの頃、驚かなくなっているのではないでしょうか。

いろんな事件が起こっていて、もうそんなことは驚かない。しかもその後ろからクラクションを鳴らされて、怒って後ろのバスの運転手を刺した。実はバスはクラクションを鳴らしていないのです。違う車がクラクションを鳴らしたのに、後ろのバスが鳴らしたと思ってその前の車の運転手は、バスの運転手を殺した。なんとも言えない事件です。

しかも高柳先生は、驚かなくなっている私たち。その事件よりも、そういったことが麻痺している今の時代。今日も出がけにびっくりしました。去年の八月にメキシコで誘拐犯がこの辺にいるって勝手なSNSが出回って、全然罪のない男の人が叩かれて、最後ガソリンかけられて燃やされるということがありました。

今、日本でもね、SNSが問題になっています。しかもこの間は女の方が焼肉店かなんかで焼肉のコンロにじゃーっと飲み物を流したり、焼肉のタレを直に口で飲んだり、そしてそれを見ていた人が「なんとかっていう店じゃない?」、「あっ、何とかっていう店だ」。わーっと。実はその店じゃなかった。ああいうのも末期的症状だなというぐらい止まらないですね、ああいうことがいったん始まると。それは私たちに関係のないことなのかどうかということを含めて。驚かなくなっている。本文に戻ると。

「何故なら、自分も何かのきっかけで暴発するかもと、感じているからなのかもしれません」。自分も暴発してやってしまうからもう驚かなくなっているのではないかということ。今の私たちは、一寸でも相手に非があると、徹底的に責め立て、怒鳴りつけ、土下座をさせたくなる衝動に駆られてしまいます。

これもありますね。新幹線で三重に帰るときに、自由席で帰るときにね、三つの席がありますよね。二つの席と三つの席。「座席に荷物を置かないでください」って車掌さんが言っていた。だけど大概の人は荷物を横に置いて、二人で座って真ん中の席を潰すのです。「これからどんどん新大阪、品川、横浜から乗ってくるから、席を一つでも多く空けてください」って言っているのですけれども。若い子が聞こえなかったのでしょう。イヤホンでなにか聞いていたかもしれません。

車掌さんが、「この荷物網棚の上に上げてください」って僕の前の方で言っていた。そしたら「なんでそんなこと俺に言うのだ」と。ずっと怒って、横浜越えて名古屋近辺に行くまでずっと言っている。この人本当、どうかと。でもそれは車掌さんもそこから逃げられないのです。職務なのでしょうか。「もうええかげんにせえ」って言ってやろうかなと僕も。そしたらこっちに来るのでしょうけどね。本当にそういう時代ですよ。

「なんで俺だけに言ったのだ、謝れ。みんなだってやっている。なんで俺に言うのか。謝れ、土下座しろ」って。もう人間、本当に火が付いたらおさめどころがね、もうないのですよね。ガソリンかけたりとか、この間は包丁で刺されたりとかいろいろあるじゃないですか。なんとも言えないですよね。

実際にやらなくてもそういう衝動に駆られてしまう。僕もそうです。相手に非があったら。この間、新幹線に乗ったら「そこ、どけ」っていうの。「は?え?」って。ぱっと見たら同じ号車、同じ席の番号なのですよ。え?こんなことあるのかなとよく見たら、一個後だったのですよ、その人の。「これ一個後ですよ」ぐらいの瞬間に切符取って降りていったのですよ。カチンときて、これ降りて行って追いかけようと思ったけどプルルって鳴って、ああこれ俺が降りて行ったら本当に更に馬鹿みたいな話になるかなと思って、もー!って怒っていたら、ちょっと前の席ぐらいでクスクス笑っているのですよね。なんか後ろの席で変なことになっているよ、みたいな。恥ずかしくて、博多から広島ぐらいまで顔まっかっかになりながら、この恨みをどこで晴らしたらいいのかと。降りていっていないのですよ。謝罪も何もないです。そんなことがありました。衝動に駆られてしまうのですよね、許さんという。

どうして、これほどまでに私たちの心は苛立ち、すぐに臨界点に達してしまうようになったのでしょうか。

ニーチェが「神は死んだ、俺たちが神を殺したのだ」と叫んでから既に百年が過ぎ、「安楽浄土」とか「如来大悲」という言葉が心に響かない「近代文明社会」を生きている私たち。振り返ってみると、小さい頃から、どこに居ても採点・評価され、点数が低いと、「何をやっているんだ」と責め立てられ続けてきました。

ニーチェはドイツの哲学者ですね。十九世紀の哲学者です。そして採点・評価です。ちゃんとやっていると良いけれども、いろんなところで点数を付けられるということですよね。評価、採点され。ずっとそういうことが私たちは学校生活が今、教育の半分を占めているわけですけれども。半分どころじゃないです。

しかも責め立てたのは、他人だけではなく、一番身近な親や祖父母であったりもしました。

残念なことですけれども。一番身近な、お父さんは願いをかけ、お母さんも願いをかけ、おじいちゃんおばあちゃんも願いをかけて、そういうふうに頑張れ頑張れってやってきたのかもしれないですね。しかし受けた子どもは堪ったものではなかったということがあって、蓄積されていくのですね。

それ故に、学校や職場だけでなく、自分の家でさえも安らげる場所ではなくなってしまって、いつも見捨てられるんじゃないかという怯えと怨みが、心の底にずっとあるのではないでしょうか

怯えと怨み。誰かからなんか言われるのではないかという怯え。それからその心が溜まっていくと怨みに変わってきます。これは深い問題です。

こうして私たちは、いつも周りからの評価の眼に晒され、怯えているので、ハリネズミのように誰に対しても警戒心をいだき、自分を防御せずにはおれません。ハリネズミのような私たちの心は、世界の中に独りぼっちだという深い孤独感で覆われていて、たまに自分のことをわかってくれる人が現れても、「きっと、この人も私から離れていくだろう」という深い疑いが消え去ることがないのです。

私を理解してくれる人が目の前に現れても、この人も何かのきっかけで僕、私の前からどうせいなくなってしまうのだという孤独の心が根強くあるのです、私たちには。深い疑いが消えることがないのです。ここからです。

ところが驚くべきことに、そうした私たちの、怯え怨む心を、如来は自分のこととして深く悲しみ、全存在を賭けて、大いなる安らぎを衆生に実現せずにはおかない(「一切の恐懼に、ために大安を作さん。」<『仏説無量寿経』「嘆仏偈」>真宗聖典十二頁)と、深く決意しておられるのです。

如来大悲の大悲というのは、我がこととして大悲という言葉が出てきているのですね。阿弥陀さんは最初から阿弥陀さんとしてあるわけではなくて、衆生の苦悩をどうにかしたいというところから出発しているのですね。法蔵菩薩という。

皆さん、今日、「正信偈」を勤められたと思います。「法蔵菩薩因位時」って出てきますね。最初に「帰命無量寿如来」から始まって、「南無不可思議光」。これは両方とも阿弥陀様です。そして「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」という。一国の国王が、世自在王という、世間自在王とも言われる仏様と遇った。その仏様と遇ったことを縁に、私もあなたのようになりたいと、国王が比丘に、お弟子になって、国を棄てて、王の位を捐てて、一人の沙門と作った。沙門というのはお弟子さんですね。仏教徒になった。そしてその時にその感動を挙げられたのが「嘆仏偈」です。

阿弥陀さんは阿弥陀さんから出発しているのではなくて、国王から出発している。私たちも一人ひとり国王なのです。頭下げたくない。さっきの僕のことを言ってもね、偉いのです。自分より力があるものが現れると媚び諂う。すべてのものに頭を下げさせたいのが私たちの国王性なのです。これは免れられないものですね。

その「嘆仏偈」、『仏説無量寿経』の中で、先程言いましたように、国王が法蔵菩薩と名のったという。そしてその名のった世自在王仏と出遇った感動をその「嘆仏偈」の中にですね。そこにその高柳さんが言いたいことがあって。「嘆仏偈」は「光顔巍巍」から始まって、途中に「一切恐懼 為作大安」とあります。これは凄いなと思いました。私たちの出発は全部不安なのです。不安と恐れと、怨む心が形になったのが私です。その一切の恐懼に、ために大安を作さん。要するに衆生の恐れおののくものに対して、私が大安を与えたいのだというのが、法蔵菩薩の世自在王仏に出遇った感激なのです。

そしてその後に四十八願を述べられる。四十八願ね。阿弥陀さんの光背が四十八本、光が出ている。十八願という有名な願がありますよね。四十八個の願いではないのです。一つの願いなのです。一つの願いを四十八通りに言っているだけであって、あなたを救うというわけです。どんなことがあってもあなたを救うよという、その一つです。

阿弥陀さんは法蔵菩薩のときに決意された。私たちに決意を求めてはいないのです。自分が決意をした。そして続く言葉は、「実の親でさえも、子どもを裁き、捨てることがあります」。

これは縁によっては、自分の親や子や兄弟、身近なものであっても、裁くということは常のことですね。

しかし、如来は裁きません。無条件に「そのまま」と呼びかけ、受け入れてくださる。阿弥陀さんは救うというときに条件を出さない。

そうなのです。悲しいことですが「実の親」は「真実の親」ではなく、如来こそが決して見捨てることがない「真実の親」なのです。

これは実の親は、親じゃないということを言っているのではないのですね。私たちには限界があるということです。縁になって親になっても、いろんなことがあれば見捨ててしまうということですね。それは昨今のニュースでもそんなこと言わなくても皆さんわかるでしょ。千葉県でいろんなことがあった方は、わかりません、僕もその方に会っていないですし、本当のことはわかっていないです。ただニュースで聞いただけなのでわかっていないです。しかし現実としてその子は亡くなったということがあるわけなのですね。それはそのお父さんだけを責めることでそれが終わるのか。どうなっていくのかわかりません。そういう事件があるということですね。

しかし「そのまま」との声は単なる受容ではなく、自分を握り、守る、

さっきのハリネズミじゃないですけど。私たちは自分の思いを、得たものを自分の思いで固めていく。ガチガチになっていくのです。さっきSNSと言いましたけれども、あれは情報公開でもなんでもなく、自分の思いをそこにぶつけているだけでしょう。そしてそのことに共感して欲しいだけなのです。情報をと言っている話ではないのです。思いをそこにぶつけて、それに横から良いだとか悪いだとかというだけで付き合っているだけ。それと一緒ですね。

自分を握って守る、その自分を投げ出せ、という「絶対否定」の声です。

そのままというのは、受け入れていく言葉ではなくて、否定している、逆に。ここがちょっと難しいです。普通はそのままでいいのだと言ったら受け入れている言葉でしょ。でも高柳さんのいうそのままというのは絶対否定。凄いですね。

その声が真に身に響き、絶対否定とそのままという言葉が真に身に響く。頭ではないです、身に、自分の生活に響くことです。知的な理解ではないということです。

聞こえる時、殻を作り防御している、その自分全体が投げ出され、無条件の世界が開かれるのです。

真宗は、易行難信と言います。お念仏して助かるといっても、「えっ?念仏を申せば助かるのですか。簡単ですね」と言うけれども、そのことを信じるのは極難信ですから。そんなこと信じられないのです。ちっちゃい時から自我というものに目覚めさせられて、それをずっと大事にしてきた僕らです。易行難信と、よく言ったものだなと思いますね。続けます。

しかも、その如来は、どこか遠くにいる神がかった神秘的な存在ではありません。

どこかにいらっしゃっている、こういう金色の形をした人がどこかにいらっしゃるということではなくて。これ親鸞聖人がおっしゃっています。阿弥陀さんが僕らを救うのではないよ。ご和讃にあるのです。阿弥陀さんが私を作るのではなくて、私を助ける用きのことを阿弥陀と名付けたてまつるという。

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(真宗聖典 四八六頁)

阿弥陀さんが摂取不捨するのではなくて。摂取不捨というのは摂め取って捨てないということです。一回摂め取ったら捨てないということは、はたらきなのです。そのことを、「阿弥陀となづけたてまつる」。阿弥陀さんがいて摂取不捨をするのではない。摂取不捨する、摂め取って捨てないはたらきを阿弥陀となづけたてまつるというふうにおっしゃっています。はたらきのことを言うのです。そのことを高柳さんがこういうふうにおっしゃった。どこか遠くにいる神がかった存在の阿弥陀さんではないのだ。

私に「そのまま」と呼びかけてくださるのは、私に先立って如来の心にふれた師であり、師の中に如来は生きてはたらいているのです。その師は、「私はあなたの師だ」とは決して言わず、逆に、「あなたは私の深い親友です」と言われ、

さっきもご和讃で皆さん一緒に唱和されたのではないですか。

他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが親友ぞと
教主世尊はほめたまう
(真宗聖典 五〇五頁)

「すなわちわが親友ぞ」と。僕らは、煩悩を捨ててね、助かっていくのではないということですね。煩悩を抱えて、煩悩の身のまま生きていくのが真宗の教えですよね。そのことをお釈迦様は、「すなわちわが親友ぞ」と呼んでおられるということであります。

世の中の人すべてが、そして実の親さえもが私を見捨てたとしても、私を無条件に信じ、いつも隣に居て、あるいは先に歩んで、呼びかけてくださっている。そのことに気づかされ、自分が投げ出される時、

否定されていますから、投げ出されるわけです。真実の世界はそんなに甘いものではないです。真実の世界は、できたら遇いたくない世界ですよね、本当のことを言われて。本当のことって、頭なでなでしてくれないから。

昔、大谷大学で廣瀬杲先生が、安居という勉強会の中でおっしゃっていました。「慰撫することは人間の自律を断ち切る」。僕その安居に一週間出て覚えているのはその言葉だけです。「慰撫することは人間の自律を断ち切る」と言いました。僕は妨げになるとか邪魔になるというふうにおっしゃるのかなと思っていたら、断ち切るとまで言いました。いい子いい子された方は、立ち上がらなくなってしまう。まあ余計なことです。

自分が投げ出される時、凍り付いた心は溶け、孤独から解放されるのです。すなわち、「真実の親」である如来に遇える時、同時に、「真実の友」「師」をいただくことができるのです。

皆さん、お一人お一人皆さん集うておられる人が、横にいらっしゃる方がそういう方であるということでもあるわけです。ですから親鸞聖人は共にということをおっしゃるわけですね。如来と直接に対面は、僕らはできないのです。遇うことが中々できないのです。師や友を通していただくのです。善知識とも言われますね。

その時ハリネズミの針は消え、深い警戒心と怨みは溶け、冷たい風こそが自身を立ち上がらせてくれる暖かい風と感じられるようになる。

ここです。ここなのです。冷たい風が暖かい風に変わらないのですよ。これが真宗です。冷たい風が暖かい風に変わるのはまやかしです。冷たい風が、冷たい風こそが、自分を立ち上がらせてくれる暖かい風に感じられるようになる。冷たい風が暖かい風に変わるのではなくて、自分を立ち上がらせる暖かい風に感じられるようになるというのは違うでしょう。

そして、不思議にも、どんな人をも敬い信じ、一切衆生の苦しみを自分のことと感じ背負う「報恩の今」を、いつも新しく生きることができるのです。

私も今日、題をつけさせていただいた、報恩の今をいつも新しく生きることができるのです。報恩の今というものを、ずっと毎回新鮮にいただくことができるというわけです。真宗は新鮮です。ぴっちぴちです。朝起きてね、朝目が覚めたらぼんやりしてしまうのか、如来さんからね、こうやって思っていただけると思ったら、自力執心の心であっても、今日一日、精一杯勤めさせていただこうということになるのですけれども。

先程言ったような、私が、私の思いの中でガチガチ固めていると、そんなものはどうでもいいと。今日はどうやって都合良く一日を終わっていくか、そっちの方ばっかり気になっていくし、そこに心がずっと行ってしまうのですけれども。それは上の、僕らの気持ちのうわっかさらなのですよ。うわっかさらでいつも生きているのです。そこをこういう如来さんの願いによって、深くさせていただくことができるのです。自分からは深くならないです。先生や友だちからそういった御縁をいただいて、深さを知ることができるのです。

そこで、お前はそういう人間だよ、死ぬまでそういう根性だよ。仏さんの私の救いを聞いて遇ったとしても、いつもそういう変わらない迷いの身である。だからこそ立ち上がっていく。それで直ったら阿弥陀さんいらないでしょ。私たちはずっと阿弥陀さんに教えていただく。だから聞法なのですよね。一回聞いて終わりではないのです。毎回新しく聞いている。毎回同じ話であっても、同じことであっても聞いていく。聞いていかれることができる。自分の鮮度の低さを鮮度の新しいものが教えてくれるということです。

そろそろ時間が来まして、報恩講ということへの話に繋がったかということは、高柳先生に助けをいただいて、今日皆さんにお話させていただきました。どうぞこれからも、ご一緒に共々に教えをいただこうと思っております。何かありましたら、真宗会館に電話をして、「渡辺駐在教導を出せ。全然わからんかった。お前の話は全然わからん」とそういうふうに言ってお叱りをいただければ、凄く幸せに、本当に思っておりますので、たまに真宗会館に来たときには声かけてください。では私の話は終わらせていただきたいと思います。どうも最後までご清聴いただきまして有難うございました。(文責:齋藤瑶子)