「秋季彼岸会法要」つとまる

2018年9月23日午前11時より明順寺「秋季彼岸会法要」が執り行われました。

お彼岸の入りから雨がちでご参詣も少ない印象でしたが、さすがにお中日には大勢の皆さまがいらっしゃいました。法要にも70名近い皆さまが参加され、皆さまと共に「正信偈」をお勤めさせていただきました。

なお、皆さまから提出された「法名」はご本尊前に奉呈してお勤めさせていただきました。

副住職からのお話

【阿弥陀の誓願・四十八願】
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。(真宗聖典204頁)

【第九願 神足通(じんそくつう)の願】
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、神足を得ずして、一念の頃において、下、百千億那由他の諸仏の国を超過すること能わざるに至らば、正覚を取らじ。
(たとえ私が、仏になっても、人が、此岸に縛られ、個人の考えを超えられないならば、私は仏にはならない。)

【私を超えるはたらき】
南無阿弥陀仏の教えをいただきますと、二つの世界があると教えられます。それは私たちが住む此岸(しがん)と、仏様がいらっしゃる彼岸(ひがん)です。此岸だけの生活と、彼岸からの呼びかけを聞く生活では大きな違いがあると思います。それを教えてくださったのは、学生時代にアルバイトでお世話になった塾長先生でした。

その塾長先生は、授業やコミュニケーションが下手な講師でも、その人に応じて担当するクラスを割り振ってくださいました。ある時、その方針に不満のある講師が、「無能なあいつはクビにしろ。もっと能力のある者に授業をやらせるべきだ」という意見を言ったことがありました。能力主義の世の中では当たり前の考え方であると思いますが、その時の塾長先生の悲しそうな顔は、今でも忘れられません。

人を大事にすることだけではなく、自分の生き方についても大切に考えておられる方でした。体験に来てくれた子が少々やんちゃで、私が、「あの子が入りたいと言っているけれども、いかがでしょうか」と聞くと、「あの子が入るとクラスの雰囲気が悪くなるから入塾を拒否する」との判断をされました。数日後、塾長先生に呼ばれ、「お前の悲しそうな顔を見ていたら、酷い考え方をしていたことに気が付いた。俺、間違っていたな。どんな子でも受け入れよう」と謝られました。

きっと、その塾長先生も色々な方に大事にしてきてもらったのだと思います。先輩の御恩、先生の御恩、親の御恩、様々な方の御恩を憶念し、自分の思いで生きるのではなく、そのいただいた御恩を忘れずに、生きておられたのだと思います。今はお浄土におられます。生きているときには言い争いをしたこともありましたけれども、今は大事な仏様として、塾長先生の姿を憶念しながら、自分が自分の都合で生きていないかを確認させてもらっています。

皆様もお浄土にいらっしゃる亡き人との対話を、是非楽しんでみてください。