浄土真宗へのいざない(An Introduction to Shin Buddhism)
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東本願寺の系譜は、「浄土真宗」あるいは「真宗」と呼ばれています。親鸞聖人(1173~1262)を開祖とする宗派で、正式には「真宗大谷派」といいます。真宗10派の中の一つです。正依(しょうえ)とするのは、釈尊の説かれた説法の記録である『仏説無量寿経』『仏説阿弥陀経』『仏説観無量寿経』の三つの経典です。

浄土教の系譜は、中国において発展しました。しかし、12世紀の法然上人(1133~1212)―彼は親鸞聖人の師匠ですが―の出現までは、独立した宗派にはなっていませんでした。法然上人は比叡山の学僧でした。しかし、覚(さと)りへの階梯を登っていくという伝統的な修業の道に疑問を感じました。ほとんどの人々にとって近寄りがたい道だったからです。法然上人は念仏の教えを選択しました。阿弥陀如来に摂取(せっしゅ)されるという南無阿弥陀仏の教えです。彼は、それまで仏教に縁のなかった人びとと教えを分かち合うために比叡山を離れました。

親鸞聖人も同じような道をたどりました。彼は、9歳のとき比叡山に入ります。そして20年間、天台教学の勉強に励みます。しかし、その経験は彼に虚(むな)しさと、仏陀の目覚めからは程遠いという感覚をもたらしました。彼は、1201年に比叡山を下ります。そして法然上人の吉水(よしみず)の教団に加わります。親鸞聖人は、法然上人のうちに、仏教の師匠というものの全く異なったモデルを見ました。すなわち、法然上人は、何よりもまず自分自身と弟子たちとを同朋、同行と見なす師であり、また生活の全てにおいて謙虚な姿勢を貫く人でした。

法然上人とその念仏の教えをとおして、親鸞聖人は自身に開かれた仏道を見出しました。彼は、比叡山での20年間の学問や修業の結果が彼を善人に変えることもなかったという事実に苦悶していました。実際その経験は、彼よりも学業や修業に劣っている者に対する優越感をもたらし、彼をより尊大にさせていました。その結果、彼が仏陀釈尊というモデルのうちに見た目覚めからも遠くなっていました。彼は、法然上人とその念仏の教えにおいて、仏教は真に普遍的であり、エゴに支配されている自分自身と正直に向き合うことのできる、全ての人々に開かれたものであるということに気づかされました。それは、自身が凡夫(ぼんぶ)であったという真実への気づきでした。凡夫とは、無知と自己中心の思いによって曇らされた人間のことです。彼は、南無阿弥陀仏のうちに、自分自身の真実に目覚めることを可能ならしめる用(はたらき)を見出しました。その用は、自分や周囲の人々に苦しみをもたらす無知を、南無へ、そして阿弥陀仏として表現された、仏教が称揚(しょうよう)する真実へ、すなわち「四聖諦」に述べられている「いのち」の現実へと導くものでした。

浄土教は、仏教の一神教的表現として誤解されてきました。それは、阿弥陀仏が、私たちを浄土に生まれさせるという「救済」に導く神としての役割を果たすものと考えられたからでした。しかしながら親鸞聖人の理解は、阿弥陀仏は、彼の名前をくり返す人々に対する「救済」を約束するような神話的な仏(ブッダ)ではなく、むしろ法(ダルマ)そのものの象徴であるということでした。

したがって浄土教は、仏陀が述べている苦の人生、そして、それをつくりだす無知について真の理解をもたらす教えです。浄土教は、気づきがあらゆる人間に可能だということを顕(あらわ)す「仏道」です。それは、生きるために苦しみもがく人々、僧院で暮らし人生を勉強と修行に捧げる機会をもたない人々、自分自身の力では自己の人生を研き、覚りへの階梯を登ることができない人々のための「道」です。この「道」は、苦悩するあらゆる人間に対して、ただ自分自身の有限性についての掛け値のない正直な内観のみを要求しています。その正直な内省は、親鸞聖人の精神において、目覚めや解放に向けての第一の、また本質的な一歩なのです。

※真宗大谷派ロサンゼルス別院ホームページより(原文英語)

浄土真宗へのいざない(An Introduction to Shin Buddhism) the Los Angeles Higashi Honganji Buddhist Temple